南部編コラム15話 法光寺

  • 2013.07.16 Tuesday
  • 11:47
 法光寺は、今から1130余年前の平安時代に開かれた古寺です。その縁起によると、開祖は北条時頼とされ、次のような伝説が残っています

  「鎌倉幕府執権:北条時頼がひそかに奥州行脚の旅の折に名久井岳に登られ、夕陽をあびて無量山観音寺と称する寺に一夜の宿を求めましたが山主は応じてくれなく、やむなく山に登って一草庵を訪ねて宿を求めたところ、庵主は大いに喜んで迎え、時頼は厚いもてなしを受け一夜を過ごしました。
 庵主のもてなしに深く感謝した時頼は、翌朝目が覚め、あたりを見ましたが庵主が見当たりませんでした。時頼公は携えてきた扇面に、『壱千石名久井通り右永代可令知行也、最明寺時頼(花押)名久井山主指城和尚殿』とかき、『水結ぶ名久井が岳を臨むれば海よりいでて山に入る月』の一首を残して惜しげに庵を立ちます。山を下る途中で庵主に逢いました。庵主が言うには、『恥ずかしながら今朝飯糧がなかったのでお客人の目の覚めぬうちに托鉢に出てこのように喜捨をうけて帰ったので再び庵に戻られるように』とねんごろを勧めました。時頼はこのことに深く感激して鎌倉に帰りました。
 時頼が鎌倉に帰るとすぐ宮野玄蕃、坂垣監物の両人を普譜奉行として大工左官鍛冶木挽に至るまで派遣して、観音寺は命令を持って廃止してその跡に七堂伽藍を建立して白華山法光寺と号して開山に指城和尚を請して時頼自ら開山となり、曹洞宗の道場を開設されたもの」

 現在、時頼と庵主の逢われた処が「出逢坂」、またこの庵を「夢相軒」と称して、今なお「古寺」としてその面影が残っています。参道の両脇の松は千本松と称し、植樹する際「般若心経」を唱えながら植えたと伝えられています。これらは日本名松百選に選定され、青森県指定天然記念物に指定されています。
 境内に建立された三重塔は承陽塔と称し、昭和24年に建てられたものです。高さ尺106(約33m)、幅26尺4寸(約8m)、大きさにおいて日本一とされ曹洞宗の東北屈指の名高い寺院です。内部には曹洞宗開祖:承陽大師の御霊骨と日本最古の仏舎利(ぶっしゃり)をが安置されています。【※仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵を指す。】
 時頼は宿泊を断られた観音寺を取り壊させたうえに、その和尚の桂竺(けいじく)を生きたまま穴を掘って逆さ埋めにしたといわれています。その地に御坊塚が建てられています。近くの案内板には「鎌倉時代北条時頼公が民情視察のため東北地方を回られた時、礼を失したるため、観音寺住職桂竺法印が逆さに生き埋めにされた所」とのみ記されています。

出典:白華山法光寺来歴記
                                                     (サト)

南部編コラム19話 八葉山天台寺

  • 2013.07.15 Monday
  • 15:54
 岩手県二戸市浄寺町にある八葉山天台寺は、作家の今東光と瀬戸内寂聴が住職を務めたことで知られています。天台寺は、奈良時代に聖武天皇の命を受けた行基(ぎょうき)が8つの峰と8つの谷を併せ「八葉山」と名づけ、山中の桂の大木を刻み、本尊の聖観音像を祀り開山したと伝えられています。行基は奈良の僧で、人々を率いて道を直したり、橋をかけたり、溜池を築くなどの社会事業を行った徳の高い人物です。草創の正確な時期はわかってはいませんが、残された文化財から天台寺が篤い信仰に支えられ、平安時代には確実に成立していたと伝えられています。

 天台寺は桂の大木の根元から清水が湧き出ていたことから「桂水観音」「御山の観音」と一般的に呼ばれていました。。桂清水は糠部地方の霊地として、古代から国内最北の仏教文化へ発展したと考えられています。天台寺の名が初めて資料に記されるのは南北朝時代、正平18年(1363年)の銅鰐口(岩手県指定文化財)で、元中9年(1392年)と伝えられる銅鐘銘には「桂泉」の名も見られます。この頃には勢力を増してきた南部氏が天台寺を崇敬・保護するようになり、室町中期には、糠部三十三所観音順礼の第一礼所となりました。江戸時代には、萬治元年(1658年)盛岡藩主・南部重直が天台寺を再興、続いて元禄3年(1690年)、南部重信が大修理を行います。この時建築されたのが現在の本堂です。

 重要文化財とされる本堂は五間四方の大堂で、奥三間を内陣として仕切り、唐破風(からはふ)屋根のみごとな宮殿風形厨子を備えた、密教寺院の趣があります。南部氏における藩直轄の社寺造営は極めて異例の規模で、そのありさまが「天台寺古絵図」からも知ることができます。天台寺古絵図とは、江戸時代に再興された全盛期の天台寺を描いたものです。桂清水から参道を登り仁王門、本堂に至る道筋や、本堂の周りには多くのお堂が並び、当時の様子が偲ばれます。描かれている地形もきわめて正確なものとされ、制作年代はわかってはいませんが、藩の手によるものと思われます。

 天台寺に伝わる59体の仏像のうち、平安仏とみられるのは13体で、このうち本尊・聖観音立像と等身仏6体、丈六仏1体の合わせて8体が国や県の文化財に指定されています。行基作と伝えられる本尊・聖観音立像は、美しい横縞模様のノミ跡をのこして素木のまま仕上げていて、鉈彫りの最高傑作として有名です。聖観音立像は前面には美しいノミ跡を施すものの、背面は平滑に仕上げていて、前面のノミ跡は意図的に施されたものであることを示しています。天台寺の諸像には素朴で魅力的なものが多く、地方作の仏像としてきわめて古く位置づけられています。

参考文献:みちのくの霊山・桂泉観音 天台寺
芳賀



 

南部編コラム14話 八戸沿岸の神・鯨

  • 2013.07.14 Sunday
  • 11:43
 藩政時代、八戸の浜では鯨がやってくるとそれらがイワシを追いこむので豊漁となるこ
とから、漁師たちは鯨を神様の使いとして崇めていました。
 また、鯨は食糧になる肉、貴重な油も採たので貴重な収入源となっていました。当時
は捕鯨技術もなかったので、岸によって来て動けなくなった「寄り鯨」を捕まえるし
かありませんでした。
 この寄り鯨が捕れると七浜が栄えるといわれていました。七浜とは7カ所の漁村のことで
すから、鯨が捕れると八戸の海岸一帯が賑わったということになります。
 八戸市白銀町の三島神社近くの小川にかけらた「鯨橋」という橋があり、この橋の材料
にはクジラの骨が使われていたといわれています。

 1679年(延宝7年)白銀海岸に寄った鯨を捕獲したところ、白身が13駄(※1)、赤身が
56駄、油が50杯樽で4つあったと藩の記録に記されており、それから2年後の正月には白銀
の浜に36頭のマッコウ鯨が寄ってきたとされています。1頭の鯨でも七浜が賑うという
くらいですから、この時は白銀はもちろん、鮫、湊、八戸までにぎわったということです。
 1682年(天和2年)、白銀海岸に体長約5.4メートルのマッコウクジラが寄ってきたので、
藩では役人を派遣し、これを入札させた結果、12両で売れたので、1両を三島神社に寄進し、
3両を両氏に与え、残りは藩の収入となりました。
 1764年(明和元年)、この年は八戸領内は干ばつ、暴風雨で凶作、津軽領は大豊作という
年でしたが、小子内浦に20メートル近い大鯨があがりました。
 これを入札したところ115貫500文(※2)で落札され、1801年(享和元年)の巨鯨は243貫
500文で落札されたといいます。このうちの半額を藩が徴収しています。さらに1818年(文
政元年)には大量の鯨が打ち揚げられ、これらは藩に多大な収入をもたらしたといわれてい
ます。
 八戸藩内の農作物はたびたび天災により凶作となることが多かったため、鯨は貴重な収入
源であったといえます。

※1 駄 1頭の馬が背負える重さ
※2 貫 100両。115貫500文は11550両。

出典:南部地方史八戸藩
                                             -haru-

南部編コラム12話 八戸藩2代藩主・南部直政と「生類憐みの令」

  • 2013.07.14 Sunday
  • 01:13

 徳川5代将軍綱吉は学問を重視し、幕政にも能力のある者を適材適所に配置し、外様大名でも登用する潔癖・果断な将軍でした。八戸藩2代藩主・南部直政を側用人にまで取り立てたのもそういった理由からでした。その反面、大名や旗本が少々の過失を犯した場合でも領地を没収されたり、厳重な処分を課すという激しい気性の持ち主で、稀代の
暴君であったともいわれています。
 綱吉の名を有名にしたのは天下の悪法といわれた「生類憐みの令」の発令でした。
 綱吉には徳松という世継ぎがいましたが5歳で亡くなり、その後子供は生まれませんでした。その理由として、綱吉が帰依していた真言宗大僧正・隆光が「世継ぎが生まれないのは、上様(綱吉)が前世で多くの動物を殺傷したのが原因ですので、これからは動物を慈しみ、特に上様は戌年生まれですので、犬を大事にされれば、問題は解決するでしょう」と綱吉の母・桂昌院を通して告げたことがきっかけとなり、この気違いじみた法令の発令につながったといわれています。綱吉が「犬公方」と呼ばれたのもこのためです。

 この「生類憐みの令」は魚や鳥を食料として飼うことを禁じたほか、犬に到っては、犬の戸籍をつくり、毛色や年齢・牡牝・生死・失踪まで届出をさせ、江戸に作られた犬小屋には数万匹の野良犬が収容されていたといわれています。この法令に違反した者には厳しい処罰が課せられ、犬を殺した者は死罪にされるほどの厳しい法令でした。

 綱吉の信頼厚く、然も幕府の重職を務める直政はこの「生類憐みの令」を遵守するため、八戸藩では4名の生類奉行を置き、屋敷内の池の鯉を数えさせたり、屋敷への鮭鱒以外の魚や貝の持ち込みを禁止しました。違反者への罰則も厳しく、かみついた犬を殺しても重罪、スズメを捕まえたり、鶏の卵を食べても罪になるというほどでした。
 元禄元年12月に藩邸の鶏小屋がイタチに襲われ、卵を抱いていた親鳥が殺され、卵が割れかけていたという事件が発生し、鳥小屋の番人には手錠がかけられました。直政は残った卵はほかの親鶏に抱かせ、傷ついた卵は丁重に処分し、鶏小屋はイタチが入らないよう修繕を施すよう指示しました。傷ついた卵は立派な容れ物に詰め、上包みを施し、人気のない場所に埋めた後、ようやく番人の手錠を許した、と当時の八戸藩の記録に残されています。
 そのほか八戸藩では、動物の皮製品、鳥の羽を使用した品物使用を禁止していました。
 元禄年間は、八戸藩内も大凶作に見舞われ、人間が飢え死にするものもあるさ中に、元禄8年11月に「今年は飢饉につき、百姓共が、猪・鹿・猿等を殺し、食糧に致す者もあるとか。これはかねてからの仰せつけの通り、堅く禁止する。また犬を飢えさせてはならぬ。捨て犬があったならば、これを飼立おき、役人に届け出よ」という、信じられないようなお布令が出されたとのことです。

 ある旗本が江戸城から下城の途中、野犬に襲われ、その野犬を切り殺したため、その処分が問題となりました。「生類憐みの令」によれば、犬を殺した旗本は死罪ということになるのですが、側用人の直政が反対したといいます。
 このことが綱吉の不興にふれたため、側用人の職を辞したともいわれています。

 天下の悪法といわれ、多くの庶民の恨みをかった「生類憐みの令」はみちのくの果ての小さな城下町にも多大な影響を与えたのでした。

出典:みちのく南部八百年地の巻、八戸藩の悲哀
                                                       -haru-

南部編コラム13話 南部長経と秋田安東の戦い

  • 2013.07.13 Saturday
  • 20:20
 三戸南部家の家紋には、割菱のほかに向い鶴紋(むかいづるもん)があります。これは輪の中に、向いあう二羽の鶴、そしてその胸には、九つの星があしらわれている家紋です。ブログにも書いた、光経が見た夢のお告げを図式化したものです。
 夢のお告げの話を聞いた守行がいたく感銘し、それを家紋にすることになったようです。ちなみに三戸南部の分家である根城南部では、分家という立場上、向い鶴紋の外の輪を除いた家紋を使用することにしたそうです。
 ただし、別の史料では、南部家の先祖・光行公が、頼朝将軍の御前で二羽の鶴を射落としたのが始まりであるという説もあるそうです。
 南部側の史料から読み取れるストーリーは、このように大変面白みがあるのですが、リアリティがあるかと問われれば、首を傾げざるを得ません。
 
アラン・スミシー
参考文献
みちのく南部八百年 天の巻
八戸根城と南部家文書

南部編コラム10話 根城の軍配

  • 2013.07.13 Saturday
  • 15:43

南部実長(なんぶさねなが)は鎌倉時代に活躍した八戸氏(根城南部氏)の祖とされる武将です。南部光信の三男で、甲州波木井(現在の山梨県身延町)の領土に居住したことから波木井実長とも呼ばれています。父・光行と同じく、鎌倉幕府に仕えていた実長は、建長5年(1253年)に鎌倉の町で辻説法をする日蓮上人に出会います。日蓮は他の宗派への攻撃ばかりでなく、幕府の政策にも厳しく批判しました。そのため日蓮は世間を騒がせる僧侶として幕府に捕えられ、佐渡ケ島へ流刑されます。

それから三年後、鎌倉に戻った日蓮に温かい手を差し伸べたのが、実長でした。実長が日蓮のために身延川のほとりに三間四面の草庵を造ります。これが日蓮宗総本山「身延山久遠寺」の最初の建物です。久遠寺の開祖となった実長も出家し、日円と号しています。晩年の日蓮は、実長の温情を受け続け、この草庵で9年間の修業の日々を過ごします。自身の死期が近づくと、実長へ最後の手紙を送り、感謝の気持ちを伝えています。

国指定の史跡・根城本丸跡に、「南無妙法蓮華経」と流れるような文字が刻まれた、大きな黒い石碑があります。この碑に描かれた七文字は、南部家の軍配(お題目の軍配)をかたどったもので、南部家と日蓮との関わりを物語るものです。軍配は昔から、根城の南部家が進軍の時に常に陣頭になびかせてきたものです。一番初めの軍配は日蓮上人が実長に授けたもので、その題目の上には菊の紋章がついていたそうです。

鎌倉幕府の権力も恐れず、体制打破をさけんだ危険人物・日蓮を擁護し、その子孫に革命的な行動を指示した実長。その子、実継は後醍醐天皇の皇子・尊良親王と共に北条政権の打倒計画に参加しています。実長から4代目の師行は、南朝方の天皇を指示し、忠誠を尽くしています。実長の貫徹した気骨精神は子孫に脈々と受け継がれています。
 
参考文献:南部地方史話 八戸藩
歴史と伝説 南部昔語
歴史と伝説 はちのへ物語
                                                      芳賀

南部編コラム11話 見町観音堂・小田子不動堂

  • 2013.07.12 Friday
  • 16:54
 見町観音堂(みるまちかんのんどう)は、応永3年(1396年)に南部政光が長慶
天皇の菩薩を弔うために創建されたと伝えられています。正面3間・側面3間で宝形
造茅葺の仏堂は、度重なる修理によって当初の姿が大分失われていますが、技法の
上では、かなり古い箇所もいくつか残されており、内部の来迎柱廻りなど当時の面
影が残っています。県内では数少ない近世の三間堂であり、平成9年1月に創建当初
の茅葺屋根に復原されました。

 堂内には、絵馬や羽子板のほか読経札、棟札、順礼札など359点が残されてお
り、平成2年に国指定重要有形民俗文化財となっています。また、見町観音堂は奥
州糠部三十三所順礼の十三番札所となっており、観光上人をはじめとする8枚の順
礼札が残されていました。応永3年(1396年)の棟札も残されていますが、現存する
ものはそれより後の江戸時代中期のものであるといわれています。
これらの絵馬は、庶民信仰の実態と推移を理解する上で貴重であるばかりでな
く、良馬の産地として古くから著名であった南部地方における江戸時代の絵馬奉納
の特色を示しています。また量・質ともに優れた東北地方の奉納絵馬の代表的なも
のとして重要であるそうです。
絵馬からは、馬と共に生活をしてきた農民の良馬産出祈願を目的としたものが多く
見受けられ、人々の馬を尊ぶ心が偲ばれます。

 七戸町中心部に位置する小田子不動堂もまた、南部政光により見町観音堂と同時
代頃に創建されたと信じられており、縁日である正月3日は、参詣者で賑わいをみ
せたといわれています。不動堂には108点もの絵馬が奉納されており重要有形民俗
文化財とされています。馬を左向きに見返り風に描いた、「藤右衛門の小絵馬」
として知られる一定形式の小絵馬が多い所が特徴です。
(金さん)

出典: 七戸の小絵馬
七戸町史
南部小絵馬目録

南部編コラム9話 後醍醐天皇の奥州統治と南部師行

  • 2013.07.11 Thursday
  • 11:15

 足利高氏、新田義貞の活躍もあって、天皇親政を勝ち取った後醍醐天皇でしたが、結局、足利尊氏(鎌倉幕府倒幕後、高氏から尊氏に改名)と対立することになります。
 尊氏は後醍醐天皇を比叡山まで追い詰めたのち、和睦を要求。後醍醐天皇は、それに応じて三種の神器を光明天皇に渡します。そして、光明天皇は、京都で朝廷(北朝)を開きます。 
 
ここで後醍醐天皇は諦めると思いきや、幽閉されていた花山院を脱出し、吉野に逃れ、そこで独自の朝廷(南朝)を開きます。
 
この南朝も、北朝に制圧され、後醍醐天皇自身も吉野で病に罹り、病死します。 しかし、それでも終わりません。
 
臨終の場面を『太平記』では、こう記されています。 
 

五骨はたとひ南山の苔にうづまるとも、魂魄は常に北闕の天(京都)を望まんと思ふ


 その言葉通り、後醍醐天皇は死後、怨霊となり足利尊氏を悩ませ続けたといわれています。恐れるべきは、後醍醐天皇の執念です。

                             
アラン・スミシー

参考文献
青森県史 資料編 中世1
みちのく南部八百年 天の巻
後醍醐天皇
後醍醐天皇のすべて

南部編コラム8話 南部の食用菊

  • 2013.07.09 Tuesday
  • 14:22


 青森県南の南部地帯一帯では、昔から黄色の食用菊の栽培が盛んに行われてきました。「阿房宮(あぼうきゅう)」と呼ばれる菊は、秦の始皇帝が築いた宮殿の名前です。日本人はもともと花を食用としており、江戸時代にはかなり大衆化していたそうです。食用菊というと、関東では刺身と一緒に盛られるつま菊が一般的ですが、東北地方では大ぶりな花びらを野菜の一種として食します。

 栽培のきっかけは、江戸時代に南部藩主が京都の九条家から観賞用として貰い受けたものを、南部町で栽培したところ、花に苦みがなく、芳香と甘味があり、シャキシャキとした歯ごたえが実においしく、食用として藩内に広められたと伝えられています。阿房宮の花は、初霜が降りる直前の10月下旬〜11月にかけて満開となり、その時、名久井岳に向かうゆるやかな斜面は黄色い絨毯で覆われます。菊は一つずつ鎌で刈り取られ、農家に運ばれた後は、花びらをむしる「菊ほかし」が続きます。

 賞味の方法は様々あり、さっと菊をゆでて軽くしぼり、おろし醤油で食べるおひたし。大根おろしとともにナマスにしたのが菊膾(きくなます)。生の花をむしり、大根おろしとともに煮た菊の味噌汁。そのほかにゴマ和え、クルミ和えにするほか、漬物にも使われます。伝統的な料理として見逃せないのは菊巻きです。一夜漬けにした人参や大根、高菜などで菊を巻きます。見た目にも美しい鮮やかな黄色は料理を引き立て、食欲をそそります。

 現在、食用として栽培されている菊は約60種類あります。山形県で栽培されている「もって菊」は食用菊の中でも一際目を引く紫色の大輪種です。香りや味、食感共に高く評価されている品種です。名前の由来は、「天皇の御紋である菊を食べるのはもってのほか」、や「もってのほか美味しい」ことから、「もってのほか」や「もって菊」と呼ばれているそうです。最近では不老不死につながるとされている食用菊、阿房宮は、美容・健康食品としても注目を集めています。

参考文献:歴史と伝説 南部昔語
 
          芳賀

南部編コラム7話 「戸(のへ)」の意味

  • 2013.07.07 Sunday
  • 13:33

南部の地名には他の地域には見られない、「一戸」から「九戸」までのように、数字に因んだ特徴的な地名があります。
これは、南部光行が糠部に9つの牧場を設けて、それを中心とした集落に一戸から九戸までの呼称を与えたことに由来しています。
これについてはいくつかの説があります。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の為に北進して、前進基地を作り、そこに柵を設けました。
この周辺にいた原住民は「柵戸(きのへ)の民」と呼ばれた。
このことから、第一の柵が「一戸」、第二の柵が「二戸」というように意味づけられました。これらを総称して糠部といったとする説があります。
また「戸」は別に「門」という区分でもあり、一戸・二戸は南門、三戸・四戸・五戸は西門、六戸・七戸は北門、八戸・九戸は東門という区分に分けられている説もありますが、現段階では、どれが真実なのか不明ですが、一番有力な説が、坂上田村麻呂の説だといわれています。

参考文献 田子町史63P
(メガネ)
 

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