コラム第24話 現在の浅瀬石

  • 2013.06.26 Wednesday
  • 10:30
 現在の青森県黒石市浅瀬石には、浅瀬石ダムがあります。大雨が降ったときにダムに一度水を溜める治水、河川流量を確保するための利水容量、弘前市、黒石市、五所川原市、平川市、青森市、藤崎町、板柳町、鶴田町、田舎館村といった市町村への上水道の供給、さらには水力圧電といった地域住民の暮らしを守り豊にする事を目的としています。  浅瀬石ダムの近くには「津軽こけし館」があります。こけしは東北地方のみに存在し地域によって形態や模様が異なる点が特徴です。ここでは津軽系こけしを扱っており伝統と歴史を学ぶ事ができます。

 浅瀬石隆盛時代といわれた7代目城主・千徳政久のとき、近江景(江戸時代初期、滋賀県にある琵琶湖周辺の代表的な名勝8カ所を選んだもの。屏風絵や版画の題材として流行した)になぞられて選んだ「浅瀬石八景」というものがあります。時代の変化によって周囲の情景も大きく変容しましたが、現在は公募によって選定された新しい浅瀬石八景となっています。

・浅瀬石八景
1、門前寺の糸柳
2、高屋敷の山ざくら
3、獅子が倉の岩つつじ
4、つるヶ沢の松あらし
5、舟渡りの秋の月
6、かくれ沢の暮れの雪
7、ちぶが沢の三滝
8、浅瀬石川の清流


以上のように浅瀬石には歴史を学ぶ名所や人々の生活を支える施設が存在しています。
 
(金さん)
参考
浅瀬石ダム公式ホームページ
津軽こけし館公式ホームページ

コラム第23話 津軽為信の家臣 沼田面松斎

  • 2013.06.25 Tuesday
  • 10:37
弘前藩初代藩主、津軽為信に仕えた名軍師、沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)。弘前城の候補地を検討したといわれているのですが、どのような人なのでしょうか。  陰陽道・易学・天文学に通じていたと伝えられていますが、詳細は不明な人物だといわれています。。しかし、津軽為信公に仕えた名軍師の眠る寺といわれる誓願寺に墓があるということです。為信による津軽統一戦に従軍し、巧みな策略をめぐらして大きな功績を挙げた沼田面松斎は津軽の陰の立役者といえるでしょう。
(金さん)
参考文献 津軽書房刊 誓願寺の公式ホームページ

コラム第22話 一国一城令

  • 2013.06.24 Monday
  • 11:50
 一国一城令とは、江戸幕府が諸大名に出した、基本的に1つの国に1つの城しか保有が認められない制度です。大名の勢力(軍事力)を統制して、徳川家による全国支配を強化することを目的としていました。慶長20年(1615年)大阪夏の陣直後、徳川家康の意向により2代将軍:徳川秀忠が定め、諸大名あてに居城以外の分国中の城をすべて破却するよう命令しました。この指令は、無断での居城修補を禁じるとともに,新規の築城も厳禁しました。主に外様大名の多い西日本を対象とし、数日のうちに約400の城がこわされたといいます。これにより安土桃山時代に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し、結果として家臣団や領民の城下町集住が一層進んだとされています。                                     (サト)

コラム第21話 ねぶた師の一年

  • 2013.06.23 Sunday
  • 11:48
 日本の三大祭りの一つともいわれるねぶた祭り。その歴史も長く、毎年色鮮やかなねぶたが青森市内を凱旋します。ねぶたは、職人が一年がかりで作る集大成ともいえる素晴らしい作品です。
 ねぶた師は、その年のねぶた祭りが終わると、すぐに次の年の構想を練り始めます。題材は、歴史物が多いため、様々な文献や資料を調査し、下絵を制作します。題材が決まり次第、手足などの細部をあらかじめ作っておきます。そして、下絵をもとにしながら針金で形を作っていきます。ねぶた作りはねぶた小屋で行われます。以前は地区や団体ごとにねぶた小屋を用意しましたが、現在では、ねぶた制作作業もしだいに観光要素の一つとなり、見学しやすいようにアスパムのラッセランドにまとめられています。下ごしらえが終わると、角材の支柱をベースに、ねぶたの骨組みを作ります。針金やタコ糸を使って、細かく複雑なかたちを作り上げていきます。次に、1000個もの電球や蛍光灯を使い、ねぶたを中から照らします。柱の影ができないように工夫をこらしています。それから、紙貼りが行われます。針金に紙を貼るのは専門の人達です。曲線に合わせて紙にふくらみをもたせたり、熟練の技が要求されます。
 さらに、書き割りといって、顔や輪郭、着物のしわなどを墨で書きいれていきます。太さやかすれなど、力強い筆の表現がねぶたの迫力を生み出します。ろう書きといって、パラフィンを溶かしたものを使い、色を塗り分けたり、すかし模様を作り出します。最後に色付けをし完成となります。染料や水性顔料などを使い、ハケや筆、スプレーなどで彩色します。
 
 ねぶたを作るには、相当な技術が必要とされます。特に制作者として優れている人には、「ねぶた名人」の称号が与えられ、現在まで、初代北川金三郎を初めとした、4人の名人が誕生しています。
(サト)
出典
青森ねぶた 1992

コラム第32話 弘前城の惣構と宗教信仰

  • 2013.06.22 Saturday
  • 11:10
 
弘前城の惣構とは、本城と城下町全域を一つの城郭と見立てて、濠や土塁で囲んだ 防衛施設をいいます。  
東側から南側には土淵川、北側には堀川(階堰)、田堰の両河川、西側には岩木川 と四方の河川が城を守ります。  
弘前の惣構は長勝寺構(33カ寺)、新寺構(南溜池と大円寺を含む16カ寺)にみら れるような寺社を惣構内の拠点として活用されていたことが一つの特徴です。  
さらに、弘前城は風水による「四神相応の地とされる東に青竜神が宿る川、南に朱 雀神が宿る池、西に白虎神が宿る道、北に玄武神が宿る山が守護する場所に築城され ています。当時、南を守護する天然の池は無く、この思想に沿うよう溜池が造られま した。  
このほか、鬼門の位置には押えとして弘前天満宮を配置し、裏鬼門にあたる位置に は長勝寺を配置し、風水上にも手厚く守護されているといえます。  
また、領内全体も神仏による加護を受けられるよう多くの寺院が建てられています。  
藩主は、津軽真言五山(最勝院、百澤寺、国上寺、橋雲寺、久渡寺)、津軽天台四 山(報恩寺、薬王院、神宮寺、袋宮寺)を定め、神仏の加護による領内鎮護を祈願す るため、自ら幾度となく寺院を訪れていました。  
このことにより領民の神仏信仰の意識も高まり、弘前藩は神仏の加護によっても守 護され、廃藩となるまで繁栄し続けけました。  
 -haru-

コラム第20話 津軽氏と政権を握る者との縁戚関係

  • 2013.06.21 Friday
  • 09:21
 弘前藩の始祖・大浦(津軽)為信は、祖父の大浦政信が関白・近衛尚通( 砲了劼
あるということを利用し、近衛家の猶子(◆砲箸覆辰得権を握る者と縁戚関係となる
ことで中央との結びつきを強化しました。

このこと以外にも津軽家では血縁関係を築いていますので、検証してみます。

1.津軽信枚(代藩主)の正室は徳川家康養女。側室は高台院()養女で石田三成の
3女。
2.津軽信政(4代藩主)の娘は松平信清(鷹司松平家3代当主ぁ砲亮次
3.津軽信寿(5代藩主)の正室は松平忠尚の養女(御家門イ琉譴帖法
4.津軽信寧(7代藩主)の正室は松平明矩の娘(御家門の一つ)。
5.津軽信明(8代藩主)の正室は松平朝矩の娘(御家門の一つ)。
6.津軽信順(10代藩主)の正室は近衛基前の娘。側室は徳川斉匡(田安徳川家Α砲
長女、次女。
7.津軽承昭(12代藩主)の継室(А砲牢愬鯑睛(─法Χ甕卉蛬罎量次L爾脇狙邉曾
の(尾張徳川家14代当主の11男)室。

以上のように弘前藩津軽家は中央政権との結びつきを強固なものとし、この血縁を利用し、
藩に与えた利益は計り知れないものがあります。


 銑┐寮睫
ゞ甕匆 摂政・関白となることができる5摂家の一つ。
⇒瓜辧覆罎Δ掘 家柄の良い家の義理の子なること。養子とは違い家督を継ぐことはない。
この場合は5摂家の一つである近衛家の義理の子となり藤原姓を本姓とし、
近衛家の家紋を使用することを許されます。
9眤羆 豊臣秀吉の正室(ねね)
ぢ觧幣省寝 5摂家の一つ鷹司家から徳川家へ娘がと嫁ぎ、その弟が親族として松平
姓を名乗ることを許されました。
ジ羃般 徳川将軍家、家康の兄弟や娘などの家系の大名・旗本。
ε聴惰狙邁 徳川御三卿(将軍家・徳川御三家に後継ぎがない場合、養子を提供して
いる)の一つ。
Х兌 正室の後妻(側室の繰り上げではない)。
内覧 天皇に渡される公式文書を事前に検閲する。

※ 松平家はいずれも徳川家の一族です。


    
-haru-



 

 

コラム第19話 長円寺の梵鐘

  • 2013.06.20 Thursday
  • 11:06

 青森県五所川原市飯詰にある長円寺には、江戸時代中期の梵鐘が掲げられています。 青銅製で、上部には、東西南北に、笛、太鼓、笙(ショウ)、琵琶を奏する4人の天女が刻まれており、下部には牡丹唐獅子の浮き模様が施されています。この梵鐘は、県指定文化財に指定されており、沈鐘の伝説が残されています。

 弘前長勝寺第14世・聖眼雲祝和尚が長円寺を開山したあと、長勝寺と長円寺へおさめられるべく、2つの鐘が京都を旅立ちます。梵鐘は、正徳6年(1716年)に京都三条釜座の名工・近藤丹波藤吉が鋳造したものです。青銅造りで鐘の響きや彫刻などが優れていることから名鐘とされています。
 
 船に積まれた鐘は日本海を北上し、十三湊に入ったところで嵐に遭い、船は沈没してしまいます。長円寺の雄鐘は引き上げられますが、雌鐘は引き上げるすべがなく、海の底に沈んだままとなり、鐘は十三湖の主となります。
それ以来、長円寺へ運ばれた鐘を撞くと湖底の鐘が、かすかに響きを立てて答えるという「湖底の鐘」の伝説がうまれたのです。
 
 更に、寛永元年に、異国船に備えるための大砲鋳造(ちゅうぞう)、昭和18年の第二次世界大戦に行われた金属回収と2度に渡り徴用されましたが、村人の切願によって、供出を免れた鐘としても有名です。  
芳賀

コラム第18話 生魂神社

  • 2013.06.19 Wednesday
  • 09:19
 生魂(いくたま)神社は、大同2年 (807年) 4月4日坂上田村麻呂将軍建立と伝えられます。
天正13年 (1585年) 5月19日兵火により焼失したため、津軽為信公が仮殿を建立。更に元和2年 (1616年) 津軽2代藩主信牧公により四間四面に再建、鬼板に津軽藩の紋である卍を付けましたが、 現在に至るまで社紋として用いられています。
サイカチの大樹は信枚公の奨励によって植えられたといわれています。
果実は石鹸の役をし、若芽は食用となり、また「再勝つ」に通じるからと地元では敬われています。
現在の生魂神社では、お盆の時期になると宵宮を開きます。
様々な夜店を見ることができますが、近年、黒石名物として注目されている「黒石つゆ焼きそば」を販売する店もあるとか
ここ以外でもつゆ焼きそばはありますが、歴史に興味がある方は、機会がありましたら立ち寄ってはいかがでしょうか。

参考文献 津軽の夜明け
                                                    
 (メガネ)

コラム第17話 酸ヶ湯 薬師神社

  • 2013.06.18 Tuesday
  • 09:19


昔、横内村に左衛門四朗というマタギがいました。左衛門四朗は、いつも通り狩りに出ますが、その日は一匹の獲物もなく、知らず知らずのうちに、今まで行ったことのない山奥に入り込んでしまいました。前岳を通り過ぎ、田茂萢岳(たもやちだけ)に差し掛かると、一匹の鹿が現れました。

左衛門四朗は狙いを定めて矢を放ちます。矢は急所を外れて太ももに当たり、急いで鹿を追いかけますが、その時には日も暮れかけ、鹿を取り逃がしてしまいます。

その4日後、左衛門四朗はその場所に戻り、雪に染まっている鹿の血を追っていくと大きな坂の下に鹿が倒れていました。人の気配を感じた鹿は、負傷したとは思えない勢いで、山奥目指し、一目散に逃げていきました。左衛門四朗は鹿を目がけ、2度矢を放ちますが、鹿の姿はかき消すように見えなくなり、捕えることはできませんでした。

そしてふと、あの鹿はあれほどの傷を受けて、どう癒したのかと不思議に思い、鹿の倒れていた所まで戻ってみると、雪の深い山奥に一坪ばかり雪のない所があります。そこからは香りの強い湯が沸いています。あの鹿は3日間この湯に浸かって深手の傷を癒していたものと理解し、左衛門四朗もそこへ入ってみます。その湯は大変気持ち良く、今までの疲労も病気も一気に癒えた気がしたそうです。

村に戻り、早速このことを人々に伝えると、たちまち評判の湯となり、湯治をする人が増えたそうです。左衛門四朗は小屋を作って湯治場とし、人々はそこを鹿湯と呼び利用しました。

現在は、酸ヶ湯(すかゆ)と呼ばれる観光地になっています。これは、シとスの発音の間違いから酸性の湯と勘違いされ、酸ヶ湯、と改名されたそうです。

その後左衛門四朗は、祠を造営し、この鹿を祀ります。これが現在の酸ヶ湯の薬師神社であるといわれています。
 
(芳賀)

コラム第16話 平将門

  • 2013.06.17 Monday
  • 09:16
 蓬田城主の蓬田越前守則政は、平将門の後裔です。平将門といえば、知らないという人は少ないかと思いますが、どのような人物だったのかを書いていきたいと思います。
 平将門は平安時代中期に活躍した関東の豪族です。正確な生年は不詳です。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、903年と884年頃とする説もあります。
 平将門は、自分の野望から国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となります。しかし、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。これが承平天慶の乱です。
 平将門は日本で最初の日本刀を発明した人ともいわれ、江戸時代などに使われた日本刀とは違い、刀身が長く「太刀」分類されたものです。日本刀、槍などはほとんどの人が聞いたことはあると思いますが、平将門の「太刀」から発展したものもあり、「長巻」、「薙刀」があります。
 平将門の首塚の周りでは様々な出来事があり、中世では天変地異が何回も起きたり、様々な伝説や逸話があります。
 この伝説や逸話により、英雄扱いになったり、悪者扱いになったりもします。

                                                     
 (メガネ)

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