第13話 大浦為信、浪岡城攻め  〜戦術〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:29
  

※浪岡城跡のハリボテ


 青森市街から7号線を南の方向へ進むと浪岡に着きます。リンゴを主体とする第一次産業が発達しており、青森市中心部や弘前市、五所川原市の3市から、ほぼ等距離にあるため、交通の分岐点となっています。その浪岡の一角に以前浪岡城があったといわれています。現在は浪岡城跡として残っており、県内で初めて国史跡指定を受けました。浪岡城は1460年代に北畠氏によって作られました。北畠氏は南北朝時代に後醍醐天皇を助けた鎮守将軍・北畠充顕家(きたばたけ あきいえ)の子孫であると伝えられています。1500年代前半の最盛期には京都と盛んに交流し、寺社を建立していました。

※浪岡城跡は国史跡になっています
 青森市浪岡。青森市街から7号線を南の方向へ進むと浪岡に着きます。リンゴを主体とする第一次産業が発達しており、青森市中心部や弘前市、五所川原市のほぼ中心に位置しているため、交通の中間地点となっています。
 
その浪岡の一角に以前浪岡城があったと言われていす。現在は浪岡城跡として残っており、県内で初めて国史跡指定を受けました。浪岡城は一四六〇年代に北畠氏によって作られました。北畠氏は南北朝時代に後醍醐天皇を助けた鎮守将軍北畠充顕家(きたばたけ あけいえ)の子孫であると伝えられています。一五〇〇年代前半の最盛期には京都と盛んに交流し、寺社を建立していました。
 

 大浦為信が津軽周辺を統一する際、浪岡城を攻撃したのは天正六年(一五七八年)七月となっており、総勢は二三〇〇余であったと言われています。(「新青森市史 資料編2」青森市史編集委員会p477より)

 浪岡御所の後見役であった北畠顕忠(きたばたけ あきただ)は「自分の御所が襲われる事は無いだろう」と油断をして、外が浜にある油川城へ行った矢先の攻撃であったため、城内は大混乱でした。城主である北畠顕村(きたばたけ あきむら)は遊び仲間であった博徒に「大浦勢は目の前にきました。早く駕籠(かご、人を乗せて人力で運ぶ乗り物)に乗って避難してください」と言われ駕籠を渡されました。臆病な性格であったと言われる顕村は、逃げ出すための駕籠に乗り城内を去る事となりますが、博徒は為信の味方となっていたとは知らず駕籠に乗ったまま大浦の本陣までいったと言われています。


※浪岡城跡の概要も解説されています
 顕忠は油川城に行き、顕村は捕われてしまったため浪岡御所の士気は無いに等しく、為信はほとんど戦う事なく巧みな戦術で浪岡城を攻略しました。戦いの終わった後、為信は顕忠に自決を進め、覚悟を決めた後「故郷を夢にいでこし道芝の霧よりもろき我が命かな」と歌を残して自決したと言われています。戻ってきた顕忠は「なぜこんなに簡単に落とされてしまったのか。浪岡には道ある武士は一人もいない。せめて一日でも戦い、城で討死してこそ弓矢の道だ」といい一人で大浦に向かったとされています。(「津軽の夜明け」陸奥新報社p194より)
 
 浪岡城はその後約四〇〇年、城跡は畑や水田として使われてきました。現在は浪岡城遺跡図と現地を見てみると面影が少し残っています。浪岡城主が臆病な性格もあったとは思いますが、浪岡城攻略は為信が巧妙な戦術家であった事が分かる戦となっております  (金さん)

参考文献
津軽の夜明け
青森県の歴史
青森市役所ホームページ
金さん

コラム 浪岡城

第12話 大浦為信、大光寺城攻め 〜平川市の軌跡〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:28

 大光寺城は「津軽三大名城」の一つです。
大光寺城跡
※大光寺城跡
 永禄八年(一五六五年)、南部氏家臣の大光寺城主・滝本重行は、対立していた乳井城主・乳井玄蕃を暗殺します。そのため玄蕃の子・乳井建清は父の敵討ちの機会を伺っていました。
 津軽は南部氏の統治下にありましたが、天正十年(一五八二年)、南部氏二四代晴政が亡くなります。後継を巡って内乱が起き、その隙を狙って、大浦為信が津軽を手中にしようと石川城を急襲し南部氏を撃破します。そして、為信は次々と南部氏の居城を攻め落としていきます。そこで、乳井建清は大光寺城も攻め落そうとしていた為信と手を組みます。天正三年(一五七五年)為信とともに攻撃し、陥落させ、ついに敵討ちに成功します。(「つがるの夜明け」P186陸奥新報社)
大光寺城跡大手門跡之碑
※大光寺城大手門跡之碑
 慶長四年(一五九九年)に、為信の娘婿・津軽建広が大光寺城主となりますが、慶長十五年(一六一〇年)、為信が死去すると、建広は大光寺城を去ったため廃城となります。(「為信戦跡」P14一般財団法人弘前みどりの協会)
 その後、大光寺城は弘前城築城のため解体され、その部材を転用したとされています。弘前城北門の「亀甲門」と誓願寺の「鶴亀門」は、大光寺城にあったものだとされています。弘前城亀甲門は、大光寺城の追手門を移築したものであり、大光寺から弘前に移転した弘前市新町誓願寺の鶴亀門も大光寺城のものを移転したとの伝承が残ります。(「つがるの夜明け」P192陸奥新報社)
関所資料館のある津軽関の庄
※関所資料館のある津軽関の庄
 「亀甲門」は一度も戦の舞台とならなかった弘前城の中で、唯一実戦の痕跡が残っている場所です。為信が津軽統一を果たすために大光寺城で戦った証として、多数の刀や矢の傷が残されているのです。
                                                     (サト)
出典 「新青森市史資料編 古代中世」P473青森市


コラム 乳井館

第11話 大浦為信、和徳城攻め 〜幕開け〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:27
※青森県和徳町 和徳神社

 青森県弘前市和徳町。ここは青森に至る街道筋であったため、商家の屋並みも形成されてにぎわいを見せたと言われています。この地域の一角に和徳稲荷神社が建てられており、和徳城があったとされる場所です。(「為信戦跡」P12一般財団法人弘前みどりの協会)

※神社内

 元亀二年(一五七一年)五月五日、三戸南部氏の支配に不満をもった大浦為信は決起し、まず手始めに石川城を攻め、落城させます。さらに勢いづいた大浦勢はその日のうちに森岡信元約二五〇人、小笠原信清約一五〇人、為信本隊約五〇〇人で三方から和徳城を攻めました。城主の小山内讃岐守は一族譜代と共に約五〇人で出撃したといいます。和徳城の城兵約一四〇人と出撃した部隊は一人残らず討ち死にし、和徳城は落城しました。
 小山内讃岐守は自刃し、嫡子・主馬(しゅめ)・次子・求馬(もとめ)・三子・弥三郎も討死し、さらに隠居していた父・永春も援軍として駆けつけましたが、形勢不利と見て、親類・田舎館家の居城田舎館城に引き上げる途中、小笠原信清隊に討たれ討死しました。大浦為信は挙兵し、わずか一日で石川城と和徳城を攻め落としたのです。大浦為信の津軽制覇の第一歩は、壮絶な幕開けとなったのです。この戦いの際、兵士たちが食べた野戦食が津軽地方の郷土料理「けの汁」の起源といわれています。(「つがるの夜明け」P182〜P184陸奥新報社)

※けの汁発祥と書かれた看板
 その後、和徳城は為信によって配下の森岡金吾信元に与えられます。しかし為信が津軽地方を領有し、弘前城が完成した頃には和徳城は自然に廃城となったものと考えられています。和徳城の正確な位置については断定されていません。現在の和徳神社一帯、あるいは坂の上・坂の下といわれる地区と考えられています。

(サト)

出典 「新青森市史 資料編2古代中世」P468青森市


コラム けの汁

第10話 大浦為信、石川城攻め  〜城〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:26

※青森県弘前市大仏公園前
 弘前市、石川城址。別名「大仏ヶ鼻城」と呼ばれるこの城は大浦為信が攻略した城のひとつです。この大仏ヶ鼻城を中心として、周りに13の城館があり、「石川城」というのはその総称です。石川城は、津軽の曽我宗家である平賀の曽我道性により建武元年(1334年)に築城されたといわれています。

※大仏公園には、由来などを説明する看板があります
 そこは津軽における南部氏の拠点であり、石川高信(南部高信)は郡代(守護代の支配を受けて郡単位で支配した代官)でした。津軽統一を目指していた為信が最初に攻撃したのが石川城だと言われています。
 元亀2年(1571年)春、為信は動きます。為信は石川城の近くにある自分の城(堀越城)を修復したいと高信に申し出ます。しかし、これは為信の謀略でした。修復すると見せかけて兵糧や武具を運び、大工や人夫、兵を引き入れ、戦いの準備を整えたのです。城の修復に見せかけた戦の準備が整うと為信は、堀越城修理の完了の宴を行うことを高信に伝え、高信側の家臣をもてなしました。そうして油断をさせ、その夜、わずか八十余騎の兵を率いて石川城を奇襲して落としたといわれています。城の本丸にいた高信は必死に防戦しましたが敵わず、妻子共々自害したと言われています。高信の死亡には諸説あり、天正9年(1581年)に石川城で病死したという説もあります。
 現在、石川城跡は、別名の大仏ヶ鼻の名前にちなんで、大仏公園と言う名の公園として整備され、人々に親しまれています。周辺はりんご畑となっており、春にはソメイヨシノ、初夏にはアジサイが見事な花を咲かせることでも有名です。そこが城跡であったことすら忘れられてしまいそうな、のどかな風景が広がっています。

※大仏公園のあじさい

 
参考文献
新青森市史 資料編2 古代・中世
サト

コラム 石川城