南部編コラム26話 愛宕山(あたござん)に流れる水

  • 2013.07.26 Friday
  • 10:53
 野辺地の愛宕山は、湊街を見下ろす丘になっており明治14年(1881年)、高橋亭山の指導により町を一望できる高台に造られた公園です。公園の登り口には真夏もかれない清らかな水が流れており、これは明治9年(1876)に天皇巡航中、飲み水に提供したことから「御膳水」と呼ばれているそうです。また、明治天皇東北巡幸の際にこの地で倒れたご料馬「花鳥号」の銅像が噴水付近に設置されています。
 桜の野生種の一つ、エドヒガン(江戸彼岸)が町指定天然記念物とされている通り、この地は桜の景勝地としても有名です。愛宕公園にあるエドヒガンは樹齢300年と推定されていて、樹高は約18m、幹の太さは約5.5mと非常に大きな桜です。この種は長寿の木として知られ、本州、四国、九州、韓国南部など広く分布していますが、東北地方北部には数が少なく、当地のエドヒガンが北限だといわれているそうです。この他にも松尾芭蕉の「花さかり山は日ころの朝ほらけ」の句碑や、石川啄木の「潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや」の歌碑といった文学に関係するものをはじめ、愛宕公園は観光スポットとして人々の憩いの場となっています。
 また、盛岡南部藩の一端を担っていた野辺地代官所。その跡地があった場所は現在、野辺地町「城内」という地名になっており、中央公民館や図書館、歴史民族資料館、商工会館、農業協同組合といった野辺地町を支える施設が集合しています。
                                                      
金さん

参考文献:
あおもりかいどう会議「青森街道図」
野辺地町史 通説編 第1巻

南部編コラム25話 南部氏唯一の女の殿様・清心尼

  • 2013.07.25 Thursday
  • 13:07

 慶長19年(1614年)、根城南部家20代・直政の急死により、後継者とする男子がいなかったため、根城南部家では次の後継者が決まるまで、一時、直政の未亡人(本家・盛岡藩初代藩主・南部利直の姪)を当主とすることになり、本家である南部利直もこれを承諾しました。
 以前から八戸地方を手に入れようと思っていた利直は、一旦、直政の未亡人に21代当主をさせ、後に自分のめがねにかなった婿を取らせ、根城南部家を意のままに操ろうと企んでいました。そのことを察していた直政の未亡人は髪を切り、仏門に入り、「清心尼」という尼になりました。尼に婿を取らせることはできないため、利直は婿を取らせることはあきらめ、表面上は自分が後ろ盾となり、八戸地方を治めることにしました。

 利直に自領の田名部の地(下北半島)を取り上げられたとき、清心尼は抵抗を見せました。
利直は「田名部の治安が落ち着くまで、当分の間、預かる」と言ったので、利直に当初書くつもりのなかった「田名部借上証文」を書かせることに成功したのです。
 この元和3年(1617年)3月31日付の証文により利直は毎年、「田名部を返せ」と催促されることになります。

 利直は清心尼の娘婿に自分に都合の良い養子を送り込もうとしますが、清心尼にきっぱりと断られてしまいました。ここにも、根城南部家を利直の意のままにはさせないという、清心尼の意地が伺われます。
 根城南部家22代当主には、新田家からの養子・直義に決まりましたが、寛永4年(1627年)、今度は利直から遠野・横田城への移封を命じれました。
 度重なる利直の仕打ちに、家臣たちの怒りも頂点に達し、一戦交えようという空気になりました。隠居していた清心尼ではありましたが「ここで利直に戦を仕掛ければ、主君・利直に背いたという口実で、九戸政実のように幕府に取り潰されてしまう」と根城南部家のため我慢するよう家臣を説得したといいます。

 遠野に移ってからは当主である直義は盛岡城常駐となったため、遠野には家老が置かれましたが、実質的には清心尼によって治められたといわれています。
 清心尼は八戸で14年、隠居してからは遠野で17年、実質的に31年もの間、当主を務め、59歳で生涯を終えました。

出典:八戸市史(近世資料編)、みちのく南部八百年(地の巻)平成南部藩ホームページ
                                                      -haru-

南部編コラム23話 関ヶ原の戦い・上杉包囲戦と南部領

  • 2013.07.24 Wednesday
  • 09:15

 少し盛岡城について触れてみましょう。
 ブログでも少し書きましたが、南部領と伊達藩は、同じ徳川家康側である東軍側でしたが、互いに対立していました。
 伊達政宗は隣接藩の不満分子を教唆し、自らがその鎮圧を行うことで、領土拡大を謀るなど、非常に野心的で権謀術数に長けた武将でした。そして、その手が南部領にも及んでいました。
 そこで、伊達政宗をけん制するために、南部利直の父南部信直が、新しい政治の拠点を三戸から盛岡に移すことを決意したといわれています。
  盛岡城の建設時期は確定していないようです。慶長3年(1598年)南部信直が参加した醍醐観桜の宴で盛岡城築城の話題がのぼっているそうで、それを築城開始の年とする説もあります。工事は、周囲に湿地や沼地も多く水害も度々起こったため、信直の時代には完成せず、孫である南部重直の誕生の翌年寛永10年(1633年)に完成したといわれています。
 重直の代で完成させた南部藩の新しい政治の拠点である盛岡城は、大阪城をモデルにして建造されました。
 盛岡城は、一度、本丸を焼失していますが、廃藩置県により廃城するまで、盛岡藩の藩庁としての役割を果たし、幕藩政治の終焉とともに、その幕を閉じることとなりました。
アラン・スミシー
参考文献
青森県史 資料編 近世1
みちのく南部八百年
シリーズ藩物語 盛岡藩

南部編コラム22話 薩天和尚(さってんおしょう)

  • 2013.07.23 Tuesday
  • 12:02
 九戸政実の乱で討伐軍が九戸軍との交渉の際、使者として政実を説得した薩天和尚。討伐軍の謀略を真に受けて、政実に伝えた薩天和尚のその後の消息は、歴史書には何も書き残されてはいません。ただ言い伝えとして、いくつかの伝説が残されています。そのひとつが「薩天和尚は、政実の子・亀千代を預かり、気仙から海路を通って、上方(京・大阪方面)に逃れた。そして亀千代は成長後、名を堀野三右衛門と改めて徳川家康につかえ、三千石を賜った。三右衛門は寛永年間に奥州を巡視したが、その際九戸に立ち寄り、親しく祖先廟を参拝し、戦死者の霊慰めた」というものです。他には「徳川方の井伊直政の城下で、近江彦根にある菩提寺・清竜寺の住職に抜擢された」また「戦が終わった後、討伐軍に偽られた事を知り、怒りの余り、南部家の菩提寺に姿を現し、その玄関に座り込んで、腹を切り、臓物(はらわた)を取り出して投げつけ、憤死した」ともいわれています。薩天和尚としては、仏に仕える身でありながら、討伐軍にあえて残虐行為を行わせた事を悔やみ、その遺族に対しては、大いに責任を感じていたに違いありません。

出典:物語 南部の歴史
                                                     (サト)

南部編コラム21話 私戦禁止令

  • 2013.07.22 Monday
  • 11:59
 南部信直が九戸政実と対峙していた天正15年(1587年)、豊臣秀吉は「関東・奥(奥州)惣無事令」を発しました。関東・奥羽の大名間の戦いは私戦と見なし、違反した者は処罰するという、いわば「私戦禁止令」であり、翌16年に関東・奥羽の諸大名に達せられました。九州を平定した秀吉の次の目標は関東・奥羽の諸大名を服従させることで、小田原の北条氏討伐はその始まりでした。秀吉は小田原攻めに参陣し、服従した者には現在の所領を保障し、参陣しない者の所領は没収する方針でした。天正18年、前田利家は家臣の内堀四郎兵衛を使者として信直に書状を送り、速やかに小田原に参陣、秀吉に拝謁し服従することを勧告しました。ですが信直は九戸政実を警戒し、動きの取れない状況でした。そこへ八戸政栄が、信直側の諸将と協力し留守を守ることを申し出て、早く参陣し秀吉の援助を得るように勧めました。信直は留守中の防備を手配し、4月上旬、嫡子・利直以下将兵1000人を率いて三戸を出発、出羽仙北を通り小田原をめざします。4月24日八王子で前田利家に会ってから、小田原にいる秀吉に拝謁。服従を誓い、6月初旬三戸に帰りました。7月、北条討伐が終わり、7月17日秀吉は奥羽仕置のため小田原を出発し北上します。これにより小田原に参陣しなかった者の領地は没収される事となりました。同月27日秀吉は宇都宮の大森に着き、羽柴秀次は前軍を率い白河に着きました。信直は白河で秀次に面会した後、大森に行き秀吉に面会することができました。秀吉は喜び着衣一かさねと7月27日付の朱印状を与えます。この朱印状拝領によって信直は豊臣政権の支配体制に組み込まれ、これまで戦国大名から脱皮して近世大名としての道を歩み始める事になります。豊臣政権の公認を得た結果、信直に謀反した九戸政実は豊臣政権に敵対する者として処罰される事になるのです。

出典:南部町誌 上巻
                                                     (サト)

南部編コラム20話 南部領は他にもあった?

  • 2013.07.21 Sunday
  • 22:33



江戸時代、関東が武蔵国と呼ばれていた頃、現在の埼玉県岩槻市の辺りには南部藩があったという説があります。
この場所は、南部藩の時代から御鷹場として存在していたのではないかといわれています。
実際にこの場所では南部長芋が作られていて、幕府に献上しており、その種は南部藩から持っていたものだということが東京の国立博物館にある資料に書かれているようです。
しかし、武蔵国絵図を見ても南部の文字は見当たらず、事実は謎に包まれています。
この武蔵国絵図はウェブサイトの国立公文書館デジタルアーカイブでも見ることができます。
このことから、埼玉県岩槻市は南部藩のものではなく、岩槻領内に南部藩の御鷹場があったのではないかといわれていますが現在まで確証はありません。
これがもし南部藩の領地であったとしたら、南部藩は奥州だけではなく関東にまで進出していたのかもしれません。

参考文献 幻の南部領
(メガネ)


 

南部編コラム27話 盛岡藩の産業

  • 2013.07.21 Sunday
  • 11:56
 盛岡藩領内には様々な産業がありましたが、他藩には見られない特に力を入れていた産業を紹介します。

 南部領内は古来から名馬の産地として知られており、源平合戦の言い伝えに登場する熊谷次郎直実の「太夫黒(たゆうぐろ)」、源義経の「青海波(せいがいは)」、佐々木高綱の「池月(いけづき)」、梶原景季の「麿墨(するすみ)」などは南部九牧(※1)の一つ住谷野の産出であるといわれています。
 盛岡藩はその伝統を受け継ぎ、優良馬の産出に関して特別な政策を採り、良馬生産に力を入れていました。

 他には、南部鉄瓶の製造があります。南部鉄瓶は現在でも有名ですが、その発祥は江戸時代に遡ります。
 万治2年(1659年)、南部重直が茶道に通じており、茶釜作り専門の鋳金職人として召し抱えた釡師・小泉仁左衛門が盛岡に移り住み細工場を建て、茶道用の釜作りをはじめたのが起源とされています。
 3代仁左衛門の頃、今のような形状の南部鉄瓶が作られるようになったといわれています。
 その後、藩主の土産品となり、盛岡藩を代表する特産品となりました。
 小泉家の南部鉄瓶の製造技術は現在まで受け継がれ、継承者は代々、小泉仁左衛門を襲名し、存続しています。

 盛岡藩からは多くの杜氏(酒造りの職人)が輩出されたことで知られています。
 南部杜氏は近江商人である村井権兵衛が八戸藩の飛び地で、米どころであった志和郡上平沢で造り酒屋を始めたことに由来されるといわれています。
 村井権兵衛は、延宝5年(1677年)に造り酒屋を始め、関西流の醸造法を採用し、京都に本店を置いており、南部領内から奉公人のを雇い入れ、醸造技術を学ばせたといいます。
 南部杜氏はもともと農家の者が多く、農作業が無くなる冬に仙台領の造り酒屋へ招かれるようになり、南部領からの杜氏ということで「南部杜氏」の名は全国に知れ渡ることと
なりました。
 そして、越後杜氏、丹波杜氏とともに日本三大杜氏の一つに数えられるようになります。
 現在、石巻市石鳥谷に南部杜氏伝承館」が建てられ、藩政時代からの酒造りの歴史を体感できるようになっています。

※1 南部九牧 南部藩直営の名馬生産のための牧場。南部九牧は三崎野(野田)、北野(野田)、住谷野(三戸)、相内野(三戸)、又重野(五戸)、木崎野(五戸)、有戸野(野辺地)、奥戸野(田名部)、大間野(田名部)の9カ所。

出典:三戸町史、五戸町史、盛岡藩

                                                                                                                                                             〜haru〜

南部編コラム18話 南部氏の一族〜北氏・南氏・東氏〜

  • 2013.07.21 Sunday
  • 11:19

北氏は、もとは剣吉氏といい、南部氏の居城・三戸城の北に居館(剣吉館、剣吉城)を
有していたため、北氏と呼ばれるようになったといわれています。北氏のほか、南部氏
一族の重鎮として南氏、東氏がおり、南氏の祖である南遠江守長義(又は信義)は、屋
敷が三戸城の南にあったため、南氏と称されるようになり、長義の次男・直勝は、九戸
氏側に付いて滅亡した七戸家国の居城・七戸城を主命により領して、新たに七戸氏を称
したといわれています。
 東氏は三戸南部14代当主・南部義政の子・東三郎信政を祖とするといわれています。
また、南部家の「三翁昔話」によれば、工藤祐経(曽我の仇討ちで有名)の子孫が奥州に
下向し、三戸郡名久井に居住。しかし、その孫の代に嫡子がおらず、甲斐国の南部からや
ってきた南部次郎行長を養子に迎えた。
 以後、この工藤家は三戸城の南部本家に仕え、名前も三戸城の東に居城していたことから
「東」氏を名乗ったといわれています。

参考文献 県別-日本の姓氏
メガネ

南部編コラム17話 田子神楽

  • 2013.07.20 Saturday
  • 16:58

田子神楽(たっこかぐら)は青森県無形民俗文化財にも指定されている、約400年前から伝わる山伏神楽です。
神楽とは、日本の神道の神事において神に奉納するため演奏される歌と舞です。
岩手・秋田・山形県にも同類型の神楽はありますが、それらの神楽にくらべて、囃子(はやし)のテンポも早く、舞の型の複雑な種類の神楽を代表するものといえます。
南部氏とも深い繋がりのある神楽で、三戸城主となった利直は三戸の山伏大蔵院と共に、田子の山伏大法院に神楽を舞わせ、盛岡城に移ってからも正月16日には田子神楽を招いて春祈祷(はるきとう)をさせ、御用神楽としたのが始まりとされています。一時は衰えをみせ、廃藩置県後は同族の池田文左エ門が神楽の振興に特に尽力し、岩手から獅子舞を移し、その弟子由蔵が伝えたのが今の田子神楽といわれています。現在の神楽保存会の技芸部はその育成した人々から教えを受けた人たちです。
現在、大法院の子孫・斉藤家の絶えた後、田子町鎮守八坂神社の境内に権現様を建てて奉安し、神楽に使う諸道具は宝庫に納められ、神社総代の管理下にあって、歌・舞ともに保存会の人たちに継承し、昭和36年1月14日青森県技芸指定(無形民俗文化財)、昭和46年度には文化庁から無形民俗文化在記録作成指定をうけました。
サト
出典:田子町史 下巻
青森県ホームページ
田子ガーリックセンターホームページ
 

南部編コラム16話 南部利康霊屋

  • 2013.07.17 Wednesday
  • 11:49

 寛永8年(1631年)11月21日に24歳の若さで世を去った南部利康の死を悼み、父の南部27代利直が寛永9年(1632年)菩提寺である今の三光寺に創立したのが、南部利康霊屋です。利康は慶長13年(1608年)南部27代利直の4男として誕生し、申年の生まれなので「申千代」と呼ばれ、元服して「彦八郎利康」と称しました。同母兄の彦九朗政直からの書状に「おさる殿参る」と宛名が記され、また元和6年(1620年)の黒印状に「猿」と自署しているものがあり、自らも「猿」と称していたそうです。
 御霊屋は、江戸時代初期の豪華絢爛なる桃山建築の様式がそのままに取り入れられ、華麗なること東北随一と賞されています。昭和42年から3年にかけ、外回り大修理の際、覆堂を改築しましたが、それによって分かったことは、従来、板壁などは当地の産材の杉材と見られてきましたが、用材のすべてが檜材でした。しかも十分に乾燥した用材を使っており、全て木曾産の檜の良材であったといいます。しかも最高級の用材ばかりが選ばれて、当時としても希少価値の高い良材でした。領内の鹿角郡に金山が発見され、南部家の財力が最も豊かな時でしたので、金にあかして中央でこの用材を購入し運搬したと考えられています。昭和28年11月14日、国の重要文化財に指定されました。

出典:南部利康霊屋--南部氏と三戸--
                                                      (サト)

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