南部編第33話 野辺地戦争

  • 2014.01.06 Monday
  • 10:27
 青森県野辺地町。県道243号線に面したところに、野辺地戦争戦死者の墓所があります。野辺地戦争は、鳥羽・伏見の戦いに始まり、箱館戦争に終わる戊辰戦争のうちのひとつです。
野辺地戦争戦死者の墓所入口
※野辺地戦争戦死者の墓所入口
 戊辰戦争は、幕藩制国家から天皇制国家に転換する際に起こった、日本を二分した新政府軍と旧幕府軍が対立した内乱のことです。慶応3年(1867年)、徳川幕府15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、薩摩藩や長州藩の意向を強く受けた天皇制国家を一旦は受け入れましたが、その翌年、諸藩に出兵を命じ、蜂起します。それに対して会津藩は伏見、桑名藩は鳥羽に向かい戦を始めます。すなわち、戊辰戦争の幕開け、鳥羽・伏見の戦いです。この戦いは薩長軍の勝利に終わり、最終的には、江戸城無血開城、徳川慶喜の水戸謹慎という結果になります。
 これで、江戸の基盤を固めた新政府軍でしたが、東北には、それでも幕府制を支持する藩が多く存在しました。彼らは、奥羽越列藩同盟を組み、新政府軍に抵抗します。しかし、これも同盟側の盛岡藩の降伏、会津藩の降伏などにより、新政府軍の勝利となります。 最後は箱館の五稜郭で、最後の抵抗を見せますが、すでに雌雄は決していたようです。 これが、戊辰戦争の概要です。
野辺地戦争戦死者の墓所
※野辺地戦争戦死者の墓所の概観
 では、野辺地戦争は、この中のどこに存在したのでしょうか。野辺地戦争は、ほぼ新政府軍側の勝利が確定したころに、弘前藩が、八戸藩にしかけた戦争です。戦争といえば、大規模なものを想像してしまいすが、いわゆる局地戦です。
 なぜ、大勢が決まったあとに戦争を起こしたかは、詳細はわかっていないようです。ですが、一説には弘前藩の微妙な立場が要因であると言われています。弘前藩は、途中から同盟側から官軍側に立場を変えたのですが、同盟側からは裏切りとみられ、官軍からは、まだ同盟側と通じているのでは?と思われていたようです。そこで、官軍側としての戦績を残し、藩としての意志を示したいと考えていたようです。ところが、弘前藩はこの戦に敗れてしまい、官軍側唯一の敗戦となります。
 しかし、勝利した八戸藩も大勢は官軍にありとみて、すぐさま官軍の総督所へ、謝罪嘆願書を提出しようとします。それに対する総督所の返答は、「そのような書類は提出の必要なし」というものでした。
 八戸藩は同盟側ではあったものの、中立的立場で官軍への援助もあったためにおとがめなしとなったようですが、所詮は大勢が決まった後の局地戦ということで、大事として扱う必要なし、と判断されたのかもしれません。
 墓地に眠る野辺地戦争戦死者たちは、この戦争の顛末をどんな思いで見ていたのでしょうか。
野辺地戦争戦死者の墓碑
※野辺地戦争戦死者の墓碑
 
アラン・スミシー
参考文献
みちのく南部八百年 地の巻 p292(伊吉書院)
戊辰戦争論 (吉川弘文館)
コラム 野辺地戦争