南部編第24話 三戸南部氏の本拠地を盛岡城に移す

  • 2013.12.28 Saturday
  • 16:43
 南部家二十六代当主で三戸城主の南部信直は豊臣秀吉から「南部内七郡」の所領を安堵されました。しかし、三戸城(現在の青森県三戸郡三戸町)が拠点のままでは、広大な南部氏の所領を統治するには北に偏りすぎているとの問題が発生しました。そこで領内の基盤固めのため、本拠地を不来方(現在の岩手県盛岡市)へ移動し、新しい城を建てる構想が浮上します。信直の嫡子である利直を総奉行として築城が始まりました。(盛岡藩」 第二章 現代書館)
  不来方が候補地になったのは、天正十九年(一五九一年)の九戸政実の乱で活躍した豊臣家重臣の浅野長政が見分し、発案したのがきっかけです。文禄二年(一五九三年)朝鮮出兵のため名古屋に滞在中、信直は秀吉に築城許可を求めたといわれており、この頃から本格的な築城計画が開始されたといわれています。慶長二年(一五九七年)、総奉行を嫡子である利直として築城が始められ、本格的な築城工事が進められました。


 


※盛岡城公園


 盛岡城は北上川と中津川が合流している突き出した丘陵に構築されています。城下建設の一歩として中津川に上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋の三橋を架け、上ノ橋と中ノ橋には擬宝珠が付けられています。この擬宝珠は、南部遠江守政行が在京中に、加茂川の橋の擬宝珠を写すことの勅許(ちょっきょ)を得て、三戸城(さんのへじょう)近くの橋に取り付けたものを使用しています。上ノ橋の方には青銅擬宝珠(せいどうぎぼし)18個あり、国指定重要美術品(工芸)となっております。下ノ橋にも青銅擬宝珠が十八個あり、こちらは盛岡市指定の有形文化財となっております。
 


※盛岡城跡石塁


 北上川と中津川が合流している突き出した丘陵に本丸・二の丸・三の丸などを配し、大きな石垣を構築の内郭として築城は進められます。2つの川を外濠として利用したり、城の基礎に地元で豊富だった花崗岩を使用したりといった、軍事的・経済的に優れた築城計画でした。しかし度重なる北上川の氾濫等が発生し、作業は困難を強いられます。築城に当たって、日々2000人以上が工事に従事したといわれています。寛永九年一六三二年(寛永九年)、利直は完成した城を見る事なくこの世を去ります。翌年跡を継いだ南部重直が初入部し、正式に盛岡城への入場となりました。以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となります。(三戸町史 上巻」 第4節118~120p三戸町史編集委員会)

盛岡城下の時鐘は、城下南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近)と北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)の二か所にありました。「日影門外時鐘(ひかげもんそとじしょう)」と称した時鐘は現在市指定有形文化財に指定されています。この時鐘は、四代盛岡藩主南部重信(なんぶしげのぶ)の子、行信(ゆきのぶ)により一六七九年(延宝七年)一一月に設置されました。明治維新後に,盛岡城跡の内堀、鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転されました。その後、1955(昭和30)頃まで盛岡の人々に時刻を知らせ、生活のしるべとして親しまれていました。現在は、610日の「時の記念日」と、元旦の除夜の鐘として年二回,関係者や市民のかたがたにより鐘の音が復活しています。(「盛岡市ホームページ」盛岡市指定文化財 時鐘より抜粋)


 


※盛岡城地図

 盛岡城は1872(明治5)の廃藩置県後、陸軍省所管となり一八七四年(明治七年)には大半が取り壊され、荒廃します。その後公園に整備され、一九〇六年(明治三九)に「岩手公園(盛岡城跡公園)」として 開園し、歴史公園として市民に親しまれています。また、本丸の三重櫓や二階櫓をはじめ、城内に存在した建物や石垣の復元を目指す活動がされているそうです。(「盛岡市ホームページ」史跡盛岡城跡整備基本計画(案))                                              (金さん)


盛岡市ホームページ