南部編第11話 七戸城

  • 2013.12.10 Tuesday
  • 16:00
 南部氏の祖である南部光行から根城南部系として代目実長、代目実継、三代目長継、四代目師行、代目政長、そして六代目信政、七代目信光、八代目政光となります。七戸城の築城年は不詳ですが南部師行の弟である南部政長が南北朝時代に築いたのが始まりと伝えられています。南部政長は、鎌倉攻めに功を立てたことにより、当地を与えられたといいます。以後七戸城は南部氏の居城として維持、されていくことになり、七戸南部氏として周辺地域の中心となったそうです。師行から政光までは終止朝廷側についていました。糠部地方には工藤氏や横溝氏など朝廷側に従わない者がいたのですが師行が平定し、北畠顕家にその功を賞されています。
七戸城
※七戸城跡 ( 現在は七戸神明宮となっている。)

 南部政光(なんぶまさみつ)は六代目南部信政(なんぶのぶまさ)の二男として生まれます。祖父である南部政長(なんぶまさなが)から七戸を配分され七戸城に居城、病弱な根城城主といわれている兄の信光と共に糖部の治安維持を行っていました。(「七戸町史」p229 七戸町史刊行委員会より)
 信光が代々領有していた甲斐の波木井(現在の山梨県)に帰った後、糖部と津軽の管理は政光が中心となって行われました。しかし、1372年(文中元年)政光も波木井へ行く事となります。信光が家督を譲ったためだといわれており、政光がいなくなった間は糖部に南部政持(なんぶまさなが 政光の祖父である南部政長の子)をおいたと「東北太平記」に記されています。


 一三九二年(明徳三年)南朝の後亀山天皇が皇位を北朝の後小松天皇に伝え、南北両朝が合体したので政光は甲州を退去しました。そして奥州に下り、根城に住んだのですが晩年に兄である信光の長男である長経に譲り、政経自身は七戸に退隠したといわれています。その後、奥州仕置きの際、三戸南部氏の家臣という位置づけとなったことを不服として天正十九年(一五九一)の九戸の乱に加担、七戸城は上杉景勝軍の攻撃を受けて落城後廃城となり、当時の城主七戸家国が斬首され七戸氏は滅亡することとなります。七戸地方は南部藩主信直の直轄地となり、代官として横浜左近がおかれたと「南部大膳大夫分国之内諸城破却書上」に記されています。
 
 七戸町役場近くにある、七戸城跡に神明宮があります。神明宮は応永3年(一三九六年)に政光によって建設されました。案内板によると「根城南部八代藩主政光の勧請により新町に創建、南部氏を始め七戸管内一円の総鎮守として広く崇敬信仰されてまいりました」と書いてあり、七戸城の由来が分かります。城は作田川が高瀬川に合流する地点の北方の丘陵に築かれています。(神明宮 案内板)    

 神明宮が建設された年と同じ応永3年(一三九六年)に南部政光が長慶天皇の菩薩を弔うため、見町観音堂(みるまちかんのんどう)を創建しました。現在のお堂は徳川末期頃の建造と思われ、正面3間、側面3間の宝形造(ほうぎょうづくり)、茅葺きの仏堂は、県内では数少ない近世の三間堂(さんげんどう)となっています。


見町観音堂
※見町観音堂
​ 観音堂に奉納されていた絵馬・羽子板・読経札・称名念仏札・納経札や、参詣や寄進に関係する巡礼札・棟札などは美術館に常設展示されています。なかには近世初頭の紀年銘をもつものも多い事から重要有形民俗文化財に指定されており、道の駅七戸にある美術館(七戸町立鷹山宇一記念美術館内の絵馬館)にて見る事ができます。 

絵馬
※見町観音堂前「絵馬の里」

現在、七戸城二の丸部分が柏葉公園として整備されています。七戸町の憩いの場となっている七戸城は、南部氏のルーツを考える上で重要である事が分かります。                                                    (金さん)