南部編第9話 後醍醐天皇の奥州統治と南部師行

  • 2013.12.09 Monday
  • 10:33

 南部師行が根城に根を下ろした背景を知るためには、後醍醐天皇のストーリーから始めるのが分かりやすいと思います。


※根城の堀

 元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇の手によって鎌倉幕府が滅ぼされます。
 そこに至る過程に、後醍醐天皇の並々ならぬ執念が感じられます。元亨4年(1324年)には倒幕のための蜂起計画が幕府側に漏れてしまい、側近の日野資朝や日野俊基などが処罰されました。いわゆる、正中の変です。さらに、元徳3年(1331年)に、またもや討幕計画が事前に発覚。後醍醐天皇本人が隠岐島へ流されます。それでも諦めない後醍醐天皇は、その2年後、隠岐島の脱出に成功し、隠岐島に近い伯耆(現在の鳥取県付近)で挙兵します。
 
そして、この執念がついに結実します。これを追討するために、幕府の命令を受けて上洛した足利高氏(のちに尊氏となる)が、幕府に反旗を翻し、一転、倒幕のために挙兵し、六波羅探題を攻め落とします。


※主殿内の広場

 それと時を同じくして、新田義貞が上野国(現在の群馬県付近)で挙兵し、鎌倉を攻め落とします。いわゆる、元弘の乱です。これにより、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による天皇親政、建武の新政が始まることになります。
 しかし、北条家を支持する残党がすべていなくなったわけではありませんでした。特に、東北地方は、残党が多く、幕府滅亡のあとも目を光らせておく必要がありました。
 
そこで後醍醐天皇は、皇子義良親王を陸奥に遣わし、さらにその補佐役として、北畠顕家を陸奥守に任命し、多賀の国府に置くことにしました。
 
顕家に従って、この奥州の統治に参加することになった者の中に、代々幕府へ中立の立場をとり、倒幕運動に参加し、後醍醐天皇の信頼を得ていた、南部師行がいました。


※根城の主殿

 広大な奥州では、国府から離れた地方まで目が行き届かない。そのため、南部師行が北奥羽地方を任されることになりました。南部師行は、建武元年(1334年)に北奥羽地方の本拠地として、八戸に根城を築城し、入城しました。 根城とは、「天皇に従わない者を討伐するための根の城」という北畠顕家から南部師行への言葉が由来になっているそうです。
 
南部師行は、根城での国代としても十分に活躍しており、北条残党と安東一族が結託して、大光寺城、持寄城に籠城した際も見事に攻略し、武功をあげています。甲州(現在の山梨県)の地頭から始まり、北奥羽統治を担うまでになった南部師行は、見事にその重責を果たしました。

アラン・スミシー

参考文献
青森県史 資料編 中世1 p43(青森県)
みちのく南部八百年 天の巻p104~p113(伊吉書院)

コラム 後醍醐天皇の奥州統治と南部師行