第31話 高岡を弘前と改称 〜津軽信枚と天海〜

  • 2013.08.30 Friday
  • 10:14

 天台宗大僧正・天海(後に慈眼大師となった)は徳川家康・秀忠・家光の三代にわ たり側近として仕え、幕府における絶大な力を持っていました。(政界の導者天海・崇伝P2吉川弘文館)
 特に家康の信任が厚く、家康との結びつきの深さを示す出来事は、家康が「関東天 台宗諸法度」を布達したことです。  「関東天台宗諸法度」は、関東の天台宗の寺院は天海が住職を務める川越の喜多院 を本寺とし、すべての寺院は本寺の指示に従わなければならないという内容でした。
 このことは喜多院の関東における権威を天台宗の総本山である延暦寺よりも上に置 いたことです。
 後に本寺は上野に建立した寛永寺に移ります。(政界の導者天海・崇伝P7〜P9吉川弘文館)
 寛永寺は江戸城の鬼門の位置に建立され、山号を東の比叡山を意味する東叡山とし ました。寛永寺建立後は関東だけでなく全国の有力な天台宗寺院も寛永寺傘下の末寺 となり、総本山の延暦寺をもしのぐほどとなり、天海は天台宗における不動の地位を 築きました。(政界の導者天海・崇伝P59〜P60吉川弘文館)
 
特に天海を有名にした業績は家康の没後、幕府は家康を類い稀な偉大な神として祀 ることを考えていたとき、神号を「明神」とすべきか「権現」とすべきかの論争があ りました。  「明神」を押していたのが天海とともに徳川家側近として仕えていた臨済宗の僧・ 崇伝と豊臣秀吉を祀っている豊国廟(豊国大明神)の社僧・梵舜で、天海は「権現」 をと主張しました。
  天海が「権現」を主張した理由は、「明神号はつい先ごろ滅亡した豊臣家の秀吉に も用いた神号で、その豊臣廟を破却させたのは、他ならぬ家康公自身である。さらに、 家康公を明神号で祀れば、家康公と秀吉は同格の神になってしまう」ということでし た。
 この天海の言い分が、2代将軍・徳川秀忠や幕閣を納得させ「権現」に決まったと いうことです。
(政界の導者天海・崇伝P46〜P57吉川弘文館)

 天海と弘前藩2代藩主・津軽信枚とのかかわりは、信枚が為信の死により、家督を 継承した時、江戸へお礼言上に行った際に弟子入りしたことから始まりました。
 その後、信枚は天海から様々なことを学び、中でも風水にたけていた天海の教えは、 新城・弘前城築城に際しても大きな影響を与えたといわれています。
 弘前城は慶長16年(1611年)、2代藩主・津軽信枚によって風水による「四神が 四方を守護する四神相応の地」の思想を用い築城され、当時の地名から高岡城と称 していました。(青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界P293青森県)
 その後、寛永4年(1627年)、落雷により天守は炎上し、大爆発を起こし焼失し てしまいました。(青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界P295 青森県)この天守炎上は、当時、祟りによるものと信じられていました。
 そこで、信枚はこの祟りから逃れるため、「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」 と改称しました。 この改称は信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によるものだといわれています。
 「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、 魔除けの意味があるそうです。
 このほか、信枚は天海の勧めで、徳川家康の養女・満天姫を娶り、領内にいくつか の天台宗の寺院を建立しています。さらに、信枚は津軽藩の江戸藩邸を天海が住職を 務める上野の東叡山寛永寺の近くに設け、後に江戸の菩提寺「津梁院」となります。 この菩提寺の号は信枚が天海から与えられた血脈「津梁院殿権大僧都寛海」から由来 するとのことです。(天台宗東京教区ホームページ清瀧山常福寺)
 また、津軽藩が越後への国替えの危機が訪れた際には、満天姫や天海の働きにより 免れることができたともいわれています。  これらのことも加えると、信枚と天海の師弟関係はかなり強いものであったことが 伺われ、徳川家康の頭脳ともいわれた天海が弘前藩に与えた影響力は計り知れないも のがあります。

出典:青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界(青森県)、政界の導者天海・崇伝(吉川弘文館)
コラム 津軽家の菩提寺          
-haru-