南部編第31話 相馬大作事件

  • 2013.12.31 Tuesday
  • 01:37
 

※相馬大作胸像

 文政4年4月23日(1821年5月24日)に、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件が発生しました。事件の首謀者である盛岡藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)は暗殺の失敗により、相馬大作と名前を変えて、江戸に隠れ住み、後に捕えられ処刑されました。この秀之進の用いた偽名が事件名の由来となっています。

 
※演舞場跡

 寛政元年(1789年)2月21日、秀之進は、盛岡藩二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市)に盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男として誕生しました。祖先は相馬三河守(そうまみかわのもり)といい、12代南部政行に仕えていたそうです。文政元年(1806)、脱藩し江戸へ上がり、名剣士として知られていた紀州藩士・平山行蔵の門下に入り、兵法武術を学びます。平山道場の師範代となるまで腕を上げた秀之進は、文化14年(1817年)、地形状況視察の為蝦夷地へ渡ります。この探検により、北方警備の重要性を痛感した秀之進は、二戸へ帰郷し、道場を開き、講堂、演武場、書斎、射撃場、馬場作りなど、本格的な文武の教育のため兵聖閣演武場を開きます。門弟は二百数十名、講堂、書院、水泳場まであったとされる兵聖閣は、全て門弟の作業により完成したもので、その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わっています。

   

※斬馬刀と普通の刀

 相馬大作事件の発端は、戦国末期からの盛岡藩と津軽藩の長年の領土争いを巡る怨念ともいわれています。また、事件の前年、盛岡藩主利敬(としたか)が39歳の若さで死亡しています。利敬は、弘前藩への積年の恨みが原因で亡くなったと伝えられています。利敬亡き後、南部利用が14歳で藩主となりますが、幼少のため無位無官でした。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、従四位下に叙任されています。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかったことも要因のひとつかもしれません。しかしその真意は、単なる南部家への忠義だてではなく、津軽・南部両家和解の上、協力して北方警備にあたるよう自覚を促すことであったともいわれています。(国史大辞典第七巻p165吉川弘文館)

   

※斬馬刀の長さ

 こうして秀之進は津軽寧親に果たし状を送り、辞官隠居を勧め、従わない場合には暗殺すると伝えます。その後計画は実行されますが、仲間の密告により未遂に終わります。暗殺の失敗により、秀之進は盛岡藩に迷惑をかけないため「相馬大作」と名を変え、江戸に隠れ住みます。しかし津軽藩の用人に捕えられ、文政5年(1822年)、千住小塚原の刑場で首を刎ねられるという獄門の刑を受けます。処刑の際に、大作の書いた辞世の歌があります。

「七度も 生まれ変わりて 北の海の あらぶるえびす 討ちてはらはん」

今死ぬとなっても、なお七度生まれ変わって、北海の海に荒らびる悪者を打ち払おうという意味です。これが大作の本当の心だったのではないでしょうか。事件は未遂に終わったとはいえ、厳しい処分を受けた大作は、34年の短い生涯を終えました。

 当時の江戸市民は、南部家に忠義を尽くした大作の行動に大きな感銘をうけ、事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられます。みちのく忠臣蔵や赤穂浪士の再来とも呼ばれた秀之進は、吉田松陰にも影響を与え、松陰はその栄誉を称え長歌を詠んだそうです。寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごします。この寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成されたことになります。

出典 二戸市立二戸歴史民俗資料館「北方防備の下斗米秀之進(相馬大作)」提供資料                            
芳賀