南部編第23話 関ヶ原の戦い・上杉包囲戦と南部領

  • 2013.12.24 Tuesday
  • 09:15

 
※南部利直が当主だった花巻城跡

 関ヶ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)にて、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との間で行われた「天下分け目の戦い」といわれた合戦です。それにいたるきっかけは、陸奥若松城主である上杉景勝が、徳川家康の上洛要請を拒否し、直江状といわれる、挑発的な返信を送ったことにあります。
 家康はこの返信を読み、上杉景勝の謀反の疑いは確実と判断。大軍を率いて景勝のいる会津の征伐に向かいます。さらに家康は、家康を支持していた東北の大名、最上家と伊達家に上杉家攻撃を要請しました。しかし、その動きを察知した上杉景勝は先んじて最上軍に攻め込みます。家康は南部利直らに、最上家救援を要請し、利直もすぐさまそれに応じて救援に向かうも、家康が会津へ出兵し手薄になった隙をついて、石田三成が徳川討伐のために挙兵します。家康は、やむなく大阪方面に戻り、三成と戦うことになります。
 上杉軍は、残された最上義光軍、伊達正宗軍と戦います。上杉包囲戦です。これは「東の関ヶ原」とも呼ばれています。この「東の関ヶ原」は、徳川軍による石田三成の敗北を知った上杉軍の撤退という結果でおわりました。それよって、家康が全国を平定することが確定しました。
 この合戦で南部利直は、山形で最上義光の加勢の任を与えられていました。しかし、山形出陣で手薄になった南部領の和賀、稗貫で反乱が起こります。和賀の旧領主和賀忠親が、豊臣秀吉に奪われた領地を取り戻そうとしたのです。この出来事は「岩崎一揆」「和賀一揆」などと呼ばれています。利直は、東軍に帰国の許可を得、岩崎一揆の鎮圧をしました。これが、上杉包囲戦での利直の戦果、ということになります。

※復元された西御門
 この和賀忠親をそそのかしたのが、伊達政宗であるという説があります。政宗は、南部陣内で謀反を起こさせ、それを鎮圧するという名目で領土を拡大しようと目論んでいたようです。
 さらに、関ヶ原の戦いに関しては、実は上杉景勝と石田三成は共謀していて、徳川家康軍を挟撃する計画であったとする説や、家康は、石田三成が蜂起することを、予め知っていて、わざと会津討伐に向かった、という説もあります。
 いくつかの説があって、最早何が事実か見当もつきませんが、権謀術数に長けた人間がうまく処世するのだと考えれば、今も昔もたいして変わりはないともいえるのではないでしょうか。
※西御門内部
   
アラン・スミシー
参考文献:
シリーズ藩物語 盛岡藩(現代書館)
青森県史 資料編 近世1 p105・p114(青森県)
みちのく南部八百年 地の巻 p80(伊吉書院)

コラム 関ヶ原の戦いと南部藩