第7話 種里城主、大浦光信 〜光信の死〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:13
 西津軽郡鰺ヶ沢町種里、県道191号線沿いに「種里城跡」があります。種里城は、延徳3年(1491年)、弘前藩の始祖である大浦光信が、三戸南部氏の命により、津軽を逐われた安藤一族の津軽奪還を阻むための拠点として築いた城です。(弘前市史資料編1P275弘前市)
 光信は種里城の他に、明応の元年(1492年)、赤石川沿いに赤石城を、文亀2年(1502年)、岩木山東南の麓に大浦城を築きます。
 


※光信の館

光信は、安藤一族からの攻撃をすべて駆逐し、安藤一族が津軽奪還を諦めると、次に目指したのは、津軽統一です。大浦城は、津軽平野へ進出するために築かれたといわれていますが、光信は津軽統一を果たすことなく、大永6年(1526年)、67歳で病のため生涯を閉じることとなります。
 


※津軽藩発祥の地石碑

光信が病に倒れ、死期を悟った時に、家臣で種里八幡宮の初代神官である奈良主水貞親(ならもんどさだちか)を枕元に呼び「汝冥途に先立ちて 我に供養せよ」と告げ、殉死を命じています。殉死した主水貞親の墓は、種里城跡にある光信御廟所の近くにあります。(国史跡 種里城跡「光信公の館」内由緒書 鰺ヶ沢町教育委員会)
 また、光信は死の直前に「死後も西の備えたらん」と言い残し、光信の養子正信に、「甲冑姿のまま、東南に向けて、立たせたまま、種里城の一郭に埋葬するよう」命じたと伝えられています。(国史跡 種里城跡「光信公の館」内由緒書 鰺ヶ沢町教育委員会)
 67歳で亡くなった光信は、死してなお所領を守るため、睨みを利かそうという光信の思いが伝わってくるような気がします。
 


※大浦光信像

 
 光信の法名は、長勝公と付けられ、盛信は父の霊を弔うために、種里に自分の父の法名にちなんで、長勝寺を建立します。光信が埋葬された御廟所には、霊力があると伝えられ、かつて、領内に悪疫が流行した時に祈祷すると、たちどころに終息したといいます。現在も光信の御廟所には、一本の雑草も生えていないとのことです。これは光信の怨念かどうかはわかりませんが、一本も生えないというのは非常に不思議な現象です。(国史跡 種里城跡「光信公の館」内由緒書 鰺ヶ沢町教育委員会)
 


※種里城跡 石碑

 
出典:弘前市史資料編1(弘前市)、国史跡種里城「光信公の館」内由緒書
-haru-

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