南部編第28話 野辺地代官所 〜南部藩最重要拠点〜

  • 2013.12.27 Friday
  • 13:30

 野辺地城は青森県上北郡野辺地町に所在した日本の城郭の一つです。野辺地町市街のほぼ中央、野辺地川の河岸段丘に築かれた中世の城で、別名を、金鶏城(きんけいじょう)といい、江戸時代は南部藩の代官所が置かれました。現在は中央公民館・図書館・歴史民俗資料館・商工会議所・農業協同組合などが建てられており、城跡周辺には「城内」の字名が残っています。駐車場入口の一角に築山風の坪庭があり、そこに「野辺地代官所跡」 の標柱が建っています。代官所は別名御仮屋・御官所・税官所などともいい、標柱の対面の家の裏には堀が残っており、野辺地川へと繋がっているようです。郭跡から野辺地川へは断崖絶壁になっており、川の外側から見上げると、要害堅固な立地にあるのが分かります。


※野辺地代官所跡

 野辺地城の建築年代は明らかでなく、南北朝時代、七戸南部氏の一族、野辺地氏が下北・上北統治のため居住したとされ、康正2年(1456年)に勃発した「蛎崎蔵人の乱」では蛎崎勢の攻撃を受けて陥落したと伝えられています。天正19年(1591年)の「九戸政実の乱」で七戸氏が陥落すると野辺地城は三戸南部氏に接収され、津軽に対する抑えとして慶長3年(1598年)石井伊賀が配され、以降、小軽米左衛門、日戸内膳が城代を務めます。江戸時代に入ると、野辺地城は代官所に改められ、明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となります。(野辺地雑記p23〜24萌出忠男)


※野辺地代官所跡全景


 野辺地は、津軽領と境界を接する南部氏にとって津軽方面に対する作戦根拠地として非常に重要な役目を持っていました。当時、津軽から南部までの経路は野辺地経由か鹿角経由しかなかったため、万が一野辺地を失うと下北半島は分断され、田名部地方は極めて不利な状態となります。糠部北方の根拠地は敵の利用する処となり、北方からの脅威にさらされます。また、戦国時代に津軽氏が南部氏から独立し、現在の青森県の西半分が領土となると、南部氏にとって野辺地は津軽領に接する重要な地域となり、江戸時代には代官所や馬門番所(南部領と津軽領との間を通行する人々や物資の出入を取り締まる役所)などの施設が設けられました。野辺地の地は交通の要所で弘前藩との藩境でもあった為、重要視され周辺の中心地となりました。


※野辺地民俗資料館内


 明治元年(1866年)戊辰戦争において、弘前藩との野辺地戦争の際、南部藩兵の拠点でもありました。官軍側の弘前藩と奥羽越列藩同盟側の八戸藩、盛岡藩との間で野辺地戦争が起こると、野辺地代官所は激戦地となりました。双方の銃撃戦の後、弘前藩を敗走させています。


 現在、城跡に建てられている歴史民俗資料館には考古、歴史、民俗に関する資料が展示されていますが、なかでも考古資料「角鹿コレクション」が有名です。これは考古学者の角鹿扇三が、明治30年(1897年)頃から昭和50年(1975年)頃まで生涯をかけて収集したもので、旧石器時代の長者久保遺跡(東北町横沢)の資料によって高く評価されています。そのほか、江戸時代に南部銅などの積出港として繁栄した野辺地湊に関する資料、野辺地町にゆかりの深い最上徳内の資料も展示してあります。(野辺地町立歴史民俗資料館「野辺地町の文化財」提供資料)


※代官所跡土塁
出典 野辺地町史 通説編 第一巻P184〜224(野辺地町)
   野辺地雑記P57〜63(萌出忠男)                               
(サト)