南部編第32話 南部領の飢饉と開墾

  • 2013.12.31 Tuesday
  • 02:43
 

※蛇口伴蔵

 南部領は大きく分けて、4回の飢饉に見舞われています。元禄の飢饉(1691〜1695年)・宝暦の飢饉(1753〜1757年)・天明の飢饉(1782〜1787年)・天保の飢饉(1833〜1839年)です。冷害や水害といった異常気象、5代将軍徳川綱吉が制定した殺生を禁止する法令「生類憐みの令」による、害獣の駆除の不徹底などが原因とされています。
 太平洋沿岸に広がっている南部領は地理的にハンデを背負っています。夏になると、太平洋から「やませ」と呼ばれる北東からの冷たくて湿った季節風が吹きつけ、しばしば冷害をもたらします。特に天明の飢饉は、多くの餓死者を出しました。犬、猫を食べるなんてことは当たり前。飢えに耐えられず、自ら首をくくる者、石を抱いて川や海に身を投げる者、さらには死体を食べる者が続出するほど凄まじいものでした。天保の飢饉では、それらに加え、強盗やそれに対する私刑などが大量に発生し、幕府の取り締まりもままならない状態でした。  

※世増ダム

 その天保の飢饉から遡ること24年、八戸領の侍として、一人の男が誕生しました。名前を蛇口伴蔵(へびぐちばんぞう)といいます。蛇口は、とにかく自分の財産を増やすことにこだわり、土地や建物の転売、高利貸しなど、体裁を省みない蓄財を続けました。 周囲には、変人、ケチ、商人侍などと蔑まれていました。しかし、彼にはどこ吹く風。黙々と蓄財に励んだのでした。その結果、蛇口の財産は莫大なものになり、最早、一代では使い切ることの出来ない額になっていました。
 何故、そこまで蓄財に拘ったのか?そこには、蛇口の固い意志がありました。
蛇口は蓄えた財産を投じ、壮大な構想を実現しようと目論んでいたのです。それは、飢饉に苦しみ、厳しい自然環境にある八戸領に対し、農地造成や物資の流通の利便性を上げるための運河の開発計画でした。  
 蛇口は、盛岡南部領で三本木原開発を行っていた、新渡戸仁(にとべつとう)の息子、新渡戸十次郎と親交を深め、技術的アドバイスを受けながら、自分の構想をブラッシュアップさせ、ついに計画の実行に乗り出します。 まず手がけたのが、白山上水計画でした。この計画は、八戸藩の大杉平や糠塚のあたりの畑を水田にしようというものでした。この計画は、水路は完成したものの十分な水が確保できず、あえなく失敗に終わりました。 次に手がけたのが、蒼前平開発計画でした。蒼前平は、八戸の町の南にある大草原です。この大草原に水を引き、水田にしようという計画でした。しかし、この計画も頓挫してしまいます。土質が悪く、草原まで水を送ることができなかったためです。さらに、悪いことに蛇口自身も病を患ってしまいます。そして、計画中止の2年後の慶応2年(1866年)に、蛇口はこの世を去ります。
 商人侍と嘲笑された蛇口は、結局、何も成果を上げなかったといえます。しかし、それで彼の評価を断ずることはできません。  

※山水寺

 2003年に完工した八戸市新井田川の世増(よまさり)ダムは、八戸市周辺への灌漑用水、上水の供給を担っています。そして、蒼前平もその恩恵に与っています。 蛇口の思いは、時代を超えて受け継がれています。その蛇口の思いが感じられるエピソードを紹介しましょう。

 蛇口伴臧は、安政4年(1857)に八戸藩での職を辞し、隠居しました。そのタイミングで、伴臧は山水と号することにしました。山水とは、論語の中からとられたものです。
『子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ』
 知者は円滑に物事を進めることを楽しみ、仁者は欲に流されず天命に安んずることを楽しむ、といった意味です。  

※蛇口伴蔵の墓

 蛇口は、灌漑整備のために「山をうがち、水を引く」という思いを込めて、山水と号しました。 山水は、その壮大な治水計画を滞りなく進めるよう、質素に生活し、また、資金の増加に努めました。そして、我欲を持たず、地域のために、開拓事業を行いました。 その姿は、まさに山水と名乗るにふさわしいもので、蛇口の意志が見事に表されていると言えるのではないでしょうか。
                           
アラン・スミシー
参考文献 :
みちのく南部八百年 地の巻 p267~p278(伊吉書院)
青森県史 資料編 近世5 p137(青森県)

コラム 南部藩の飢饉と開墾