第22話 堀越城 〜前線基地から本城へ〜

  • 2013.08.26 Monday
  • 19:30
※青森県弘前市堀越城入口  
 堀越城は、津軽統一を成し遂げた弘前藩祖・津軽為信の居城です。
 弘南バス・堀越バス停側に、赤い鳥居と、その横に堀越城址と書かれた石碑があります。鳥居を抜けた先が堀越城跡となっています。本丸跡は熊野宮の境内や公民館の敷地になっており、堀跡や土塁などの遺構も広範囲に渡り残っています。現在は、史跡公園として整備しているため、発掘調査が断続的に行われており、陶磁器や鎧の一部など、多くの出土品も見つかっています。(「為信戦跡」P26〜P27 一般財団法人弘前みどりの協会)
※堀越城跡水豪
 この城は、建武四年(一三三七年)北朝方の曽我貞光が、南朝方への攻撃拠点として築城されたといわれています。文禄三年(一五九四年)、為信は大浦城から堀越城へと本城を移し、神社・仏閣(ぶっかく)などを集め、城下町を形成しました。このとき、津軽氏祖先・大浦光信の菩提寺である長勝寺も、大浦から移しました。堀越城は一説によると津軽氏祖先・威信(たけのぶ)の居城であったほか、四代・大浦為則の弟・武田守信(為信の父といわれる人物)の城でした。さらに、為信は幼時ここで町居飛鳥に養育されたと伝えられ津軽氏には由緒ある城だといわれています。その後、津軽統一を目論む大浦為信により、堀越城は前線基地として利用され、石川城や大光寺城も攻め落とします。
※堀越城石碑
 堀越城には守備に弱いという弱点もありました。平川沿いの低湿地を利用した堀越城は、洪水などの水害が頻発し、適切な立地条件ではなかったようです。更に、慶長五年、為信が徳川方につき、関ヶ原の合戦に出陣中の留守中に、尾崎喜蔵、三ツ目内玄蕃、板垣兵部の三将が謀反を起こし、堀越城を占領しました。しかしこの後、反逆軍の全滅で幕を閉じます。また、慶長七年(一六〇二年)には家臣が城の防備を破って本丸・二の丸・三の丸に切り込むという天童事件が発生。ここに及んで、この城が不吉であることや防備の不足が問題となり、新たな本城として弘前城の建設が決められ、第二代藩主・津軽信枚の代に弘前城が完成して本拠を移しました。(「つがるの夜明け」P242〜P248 陸奥新報社)
 その後、元和元年(一六一五年)の一国一城令により、堀越城は廃城となるのです。                                                                        (サト)
出典 「青森県史資料編 近世1」P74 青森県
コラム 一国一城令