第23話 新しい城の建設計画 〜3つの候補地〜

  • 2013.08.27 Tuesday
  • 08:02
※青森県弘前市長勝寺

 関ヶ原の戦いが終わり、4万7千石の大名として津軽に帰ってきた為信は、国づくりを計画するとともに新しい城を築く必要が出てきました。慶長8年(1603年)4万7千石の大名にふさわしい城と、城下町の建設が計画されました。新城の計画は、武田流の軍学者でもある軍師沼田面松斎によって立案され、津軽領内を調査した結果新城築城候補地として三カ所があげられました。 栗の木林の高地(現弘前市西茂森町長勝寺付近)関ヶ原の戦いが終わり、47千石の大名として津軽に帰ってきた為信は、国づくりを計画するとともに新しい城を築く必要が出てきました。慶長八年(一六〇三年)47千石の大名にふさわしい城と、城下町の建設が計画されました。新城の計画は、武田流の軍学者でもある軍師沼田面松斎によって立案され、津軽領内を調査した結果、新城築城候補地として三カ所があげられました。栗の木林の高地(現弘前市西茂森町長勝寺付近)、高岡二ツ石(現弘前城)、館岡近江沢(西郡木造町館岡)です。(「ふるさとの歴史」津軽書房p94,95pより)
  

現弘前市西重盛町長勝寺付近

 津軽統一を果たしたとはいえ、まだ戦国時代の動乱の時世であるため、下剋上などで家臣から襲われることを恐れた為信は自分の領地をしっかりと作ることに専念しました。この事を考慮し、三カ所を調査した結果、高岡二ツ石が一番適当ということになりました。早速徳川幕府に築城許可を願いましたが、許可はなかなかおりません。  

 ようやく許可がおりたのは6年後の慶長一四年(一六〇九年)の事ですが、為信は2年前の慶長12年に病死していました。そこで新城築城計画は2代信牧の手に引き継がれて行われる事となります。信牧は新城築城許可が下りた12月、家老・兼平綱則、小笠原伊勢、乳井美作、服部長門守たちと協議し、慶長15年(一六一〇年)1月、工事人夫の割り当てを領内に命じました。そして、翌年に高岡城が完成しました。後に地名が弘前に改名されると、城の名前も弘前城となるのです。(「新青森市史資料編2
青森県市史編集委員会
p544より)

 築城当時の天守閣は現在の天守閣の向かい角、西濠を見下ろす場所に建てられ、五層の壮大なものだったそうですが、寛永四年(一六二七年)、落雷で焼け、現在の天守閣は文化七年(一八一〇年)に作られたものです。
 
(金さん) 
参考文献 津軽書房刊「ふるさとの歴史」 陸奥新報社「津軽の夜明け」
コラム 津軽為信の家臣、沼田面松斎