第3話 津軽の夜明け 〜嘉元の鐘〜

  • 2013.08.16 Friday
  • 09:51
 


※長勝寺 山門

青森県内最古の銅鐘、嘉元(かげん)の鐘は、北条貞時が弘前市藤崎の護国寺に作ったものです。嘉元4年(1306年)、時代は得宗専制化をめぐり、北条氏内部での覇権争いが激化している頃でした。 得宗専制化とは、鎌倉時代において執権を務める北条氏の惣領であった得宗に幕府権力が集中していたことを指します。  鎌倉幕府を3つの時代に分けた場合、源氏将軍、執権政治に続く第3の時期にあたります。「光源氏」に似た名前ですが、全く関連はありません。この「源」姓は当時の鎌倉幕府における武士の階級を表していて、実際には、どんな姓だったのかはわからないそうです。弘前市中別所の板碑の中に名前が記されていること、弘前市長勝寺の「嘉元の鐘(かげんのかね)」という重要文化財の梵鐘(ぼんしょう)にもその名が残っていることから源光氏は実在したとされています。(つがるの夜明けP98〜100陸奥新報社)


※嘉元の鐘

さて、この「源光氏」が何者なのかということですが、前文で述べた板碑の文面には、亡父「高椙西円禅門(たかすぎさいえんぜんもん)」の三十五日忌に立てた供養碑であること、他の板碑の中に「源泰氏(みなもとのやすうじ)」の名前もあり、「源泰氏」が「高椙郷主(たかすぎきょうしゅ)」といわれています。


※鎌倉時代の板碑

津軽は得宗領におかれ、鎌倉の文化や宗教の影響を強く受けていたといわれています。そのひとつとして、北条貞時が身内人の結束を高めるために、嘉元の鐘を作ったといわれています。
身内人とは、北条氏に仕えた武士、被官、従者などを指し、14人の得宗被官の名前が刻まれています。もともとこの鐘は藤崎にあった護国寺に掲げられていたもので、幕府の祈祷所となっていたそうです。
藤崎は、貞時の祖父の時頼廻国伝説や、時頼の妾だった唐糸御前の伝説がのこされている土地です。 伝説というのは、時頼が出家後、旅の僧の姿で貧民を救って歩いたという伝説が太平記などの文献にも残っています。しかし、鎌倉幕府の正史(吾妻鏡)には、時頼廻国伝説の記述は残されていません。時頼のお忍びの行動だったとすれば納得は出来ますが。


※他の板碑

この鐘に刻まれた14人の一人である源光氏は、弘前市高杉あたりにいた豪族と考えられており板碑も残っています。その他の人物についても諸説は残っていますが、関東に拠点を置きながらも、この頃に津軽地域で地頭代職を得ていたのではないかと推測されます。この頃から津軽は大きく変貌を遂げ、更に南北朝の内乱に巻き込まれていきます。

出典 新編 弘前市史P237〜254(新編弘前市史編集委員会)
       図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史P76〜77(株式会社郷土出版社)
   
   
(メガネ)

 


コラム 板碑の歴史