第20話 大浦為信、秀吉から津軽支配を認められる 〜為信、4万5千石の大名となる〜

  • 2013.08.26 Monday
  • 17:50

 大浦為信は南部氏の命により、安東一族の津軽奪還を阻むために派遣された大浦氏の5代当主でした。 為信は南部氏から独立するため謀反を起こし、津軽一帯と外ヶ浜、糠部郡の一部を手中に収めていました。
 
そして、天正18年(1590年)小田原征伐の際に、いち早く秀吉の陣中を訪れ、津軽支配を認める朱印状を受け、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵されました。(青森県史資料編近世1P223青森県)
 このことにより、為信は津軽藩4万5千石(表高。実質は十万石以上ともいわれています。)の大名となりました。
 
一方、為信に津軽を奪われた南部氏26代当主・信直は、為信は私戦を禁止した惣無事令に違反した逆徒であると、秀吉に訴えましたが、信直の訴えは退けられました。そして、信直も為信に後れを取りましたが、同年、秀吉に謁見し、南部支配を認める朱印状を受けました。(みちのく南部八百年 天の巻P287伊吉書院)

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 また、為信は祖父・政信が、前の関白・近衛尚通の子であると、尚通の孫にあたる関白・近衛前久に接近し、財政支援を申し出て猶子(注1)となり、本姓・藤原を授けられ、近衛家の家紋である「杏葉牡丹」の使用を許されます。(物語南部の歴史中世
編P伊吉書院378、新釈青森縣史P278東奥日報社)
 すでに、秀吉も関白となるために、前久の猶子となって藤原姓を授けられており、為信とは義兄弟となっていたことも、朱印状を受けることができた要因の一つとなったともいわれています。 
 こうして、為信は関白と縁戚関係となることや有力大名に貢物を贈るなどの工作を駆使し、
当時の政権に政権における人脈を作ることで津軽家繁栄の基礎を築いたのです。                     

注1:義理の子となること。養子とは違い、家督を相続したりせず、姓と家柄を得るために行っていた。

出典:青森県史資料編近世1(青森県)、物語南部の歴史中世編(伊吉書院)、みちのく南部八百年 天の巻(伊吉書院)、
新釈青森縣史(東奥日報社)

                                                                                                                                                    -haru-

コラム 津軽氏と政権を握る者との縁戚関係