第19話 大浦為信、飯詰高楯城を攻略 〜津軽統一完成〜

  • 2013.08.23 Friday
  • 17:47
※青森県五所川原市高楯城の西郭
 青森県五所川原市飯詰地区に飯詰城跡があります。飯詰城は高楯城とも呼ばれ、西郭・主郭・東郭からなる平山城です。飯詰城は孤立した58.8メートルの飯塚山に築城されました。山頂には一段高い主郭と、空堀で区切られた東西の両郭が存在し、南北両側には階段状に帯郭が設けられていました。浪岡北畠氏の家臣・朝日氏の居城といわれ、康永3年(1344年)万里小路藤房の息子・朝日景房が築城したとされています。その後、朝日氏は浪岡氏に仕えます。
※高楯城址の石碑

 天正6年(1578年)に大浦為信は浪岡城を攻撃し、北畠一族を追放しました。その後次々と津軽地方の拠点が為信の手によって落ちていく中、朝日氏最後の城主である朝日佐衛門尉行安は10年間にわたって大浦氏に抵抗するのです。しかし天正16年(1588年)、為信軍によって水脈を断たれた飯詰城は、とうとう包囲されました。朝日勢の抵抗も空しく、力尽きて城に火をかけあえなく落城し、朝日氏は滅亡しました。主従300余名は自刃したといいます。
※青森県五所川原市長円寺

 朝日勢の籠城の際、十分にあった兵糧に対し水が不足した城内では、包囲している大浦勢から見える場所で馬を白米で洗い、遠目に水があるように見せかけましたが、為信に見破られたという伝説が残っています。近くに流れる糖塚川に鎧を投じて逃れようとしたが力尽き、主従が自害して果てたという、「鎧留」の名が残っている場所もあります。また、怨念が残っているのか、毎年落城の日が近づくと城の周囲に怪異な事が起きるという話もあります。

 この飯詰城が落城した事により、大浦為信の17年に渡る津軽統一は完成するのです。
  
出典 五所川原市史 通史編1 P306〜310(五所川原市)
   飯詰観光(第一巻)高楯城物語りP21(柳原与四郎)                                     

(芳賀)


コラム 長円寺の梵鐘