「南部氏」とは − 南部氏の北奥羽支配 −

  • 2014.03.31 Monday
  • 15:37
南部氏の北奥羽支配

 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』や南部氏の家伝によれば、南部氏は源頼朝の平泉攻め(奥州合戦)に参加し、その武功により、現在の青森県南東部から岩手県北部に至る糠部(ぬかのぶ)地域に所領を与えられたという。しかし、南部氏は甲斐国巨摩(こま)郡南部郷(現山梨県)を本領としていたため、糠部の経営に当たることはなかった。

 その状況が変わったのは、鎌倉幕府が衰退した1320〜30年代である。南部氏は執権北条氏の支配を脱け、後醍醐(ごだいご)天皇を助ける側に回った。やがて足利尊氏が力を持つとこれに反発し、後醍醐天皇を支持する陸奥守北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)に従って奥州に入った。この時、南部師行(もろゆき)が北奥の奉行に抜擢され、糠部の八戸に根城(ねじょうと呼ばれる城館を築いた。南部氏の糠部支配はここからスタートした。

 糠部に入った南部氏は、北奥羽から津軽海峡を越えて蝦夷地に至る広大な地域を支配していた安藤氏とぶつかることになった。幸いなことに、この時期の安藤氏は出羽国秋田の惣領(そうりよう)家(上国(かみのくに)安藤氏)と陸奥国津軽の分家(下国(しものくに)安藤氏)に分かれ、蝦夷(えぞ)管領(かんれい)職をめぐって対立していた。南部氏は隙を衝いて下北・外ヶ浜(そとがはま)・津軽・十三湊(とさみなと)を次々と奪った。安藤氏は蝦夷地や出羽国に逃れ、失った土地の回復を図ったが、実現しなかった。
 こうして南部氏は北奥羽の一大勢力にのし上がったが、のちに「三日月の円くなるまで南部領」と呼ばれたほど広大な領地を支配するには、一族や家臣に所領を分け与えて統治させるしか方法がなかった。そのため久慈氏や九戸氏などの有力な一族は、南部本家の命に従わないことがあった。家臣団も一枚岩ではなく、例えば、南北朝の対立が止んだ14世紀末以降南部本家が拠点としてきた聖寿寺館(しょうじゅじだて)(現南部町)は、天文8年(1539)、家臣赤沼備中(びっちゅう)に放火され焼失したという。

 義父南部晴政(はるまさ)との確執の末に本家を継いだ南部信直(のぶなお)は、天正18年(1590)の小田原攻めで天下人の地位を固めた豊臣秀吉に忠誠を誓った。しかし、信直の相続を認めない九戸(くのへ)政実(まさざね)の反乱に手を焼き、秀吉に助けを求めた。秀吉は蒲生(がもう)氏郷(うじさと)らを送って政実を討ち、その居城九戸城(現九戸市福岡)を信直へ与えた。
一方、根城南部氏(八戸氏)のように比較的早くから南部本家に臣下の礼をとり、戦国の生き残りを図った一族もある。文禄2年(1593)、朝鮮出兵に参加するため肥前国名護屋(なごや)(現唐津市)に出かけた信直は、信頼していた八戸政栄(まさよし)に留守を託し、「伝統や慣習にこだわるな」「こちらでは出世のために皆がよく働く」と、天下の情勢を書き送った。その後の八戸氏は筆頭家老として、南部本家を支えた。

 信直の子利直(としなお)は、慶長5年(1600)の関ヶ原戦で徳川家康の東軍に味方した。江戸幕府公認の大名となった利直は盛岡城を築いて九戸から引き移り、260年余の拠点とした。しかし、南部領は山と海に挟まれて平地は少なく、ヤマセと呼ばれる冷たい北東風が吹く、農業生産性が極端に低い地域だった。冷害・凶作がひん発し、大飢饉によってしばしば多大な餓死者を出した。1740〜50年代に八戸に住んだ医者安藤(あんどう)昌益(しょうえき)は「武士も耕して食え」と、封建(ほうけん)社会を批判した。

 江戸時代後期には日本近海に外国船が出没するようになり、とくにロシア船対策が大きな課題となった。蝦夷地に近い盛岡藩・弘前藩は警備の主力とされ多くの人数を派遣したが、それが幕府に評価され、大幅な知行(ちぎよう)の加増を受けた。それゆえ、嘉永6年(1853)のペリー来航で幕府が動揺・崩壊への道をたどった時も、盛岡藩は最後まで幕府を支持する立場を貫いたのである。

 東北地方において、一つの地域で鎌倉・室町・戦国・江戸と家名をつないだ大名は、南部氏の他にはない。

(青森県史編さんグループ近世部会 本田 伸)