「津軽氏」とは − 津軽為信の独立 −

  • 2014.03.31 Monday
  • 15:30
津軽為信の独立

 南部氏から津軽地方を実力で切り取り、戦国の世の生き残りを果たした津軽為信(ためのぶ)の前半生については、実はよく分からない点が多い。

 為信が津軽姓を名のるのは天正19年(1591)からで、それ以前は妻方の大浦(おおうら)姓を用いていた。しかし、為信が成人するまでの過程については諸書の記述が食い違っていて、決定的と言えるものはない。17世紀中ごろに書かれた為信の伝記「愚耳(ぐじ)旧聴記(きゆうちようき)」によれば、為信は大浦為則(ためのり)の弟の子で幼名は「扇」だったという。一方、南部氏の「参考諸家系図」によれば、為信は久慈(くじ)治義(はるよし)の二男で幼名を「平蔵」といった。兄信義と不仲になり、弟五郎とともに大浦為則の養子になったという。

 為則の跡を継いだ為信は、永禄10年(1567)、岩木川中流部の大浦城(現弘前市賀田)に拠点を移した。元亀2年(1571)には石川城(現弘前市)を攻めて津軽郡代石川高信(南部信直の父)を自殺させ、南部氏に対し公然と叛旗を掲げた。為信は秋田の安東(安藤)愛季(ちかすえ)らに持ちかけて南部氏を牽制させ、天正4年(1576)には、南部氏の一大拠点大光寺城(現平川市)を攻略した。さらに浪岡城にいた南部氏の客将北畠氏を滅ぼし、津軽平野を横断する平川に面した浅瀬石(あせいし)城(現黒石市)なども従えて、豊かな南津軽一帯を支配下に置いた。隣国の比内(ひない)・鹿角(かづの)地方の領主たちや、東国・北陸・畿内から移住してきた武士らも家臣団に取りこんだ。

 為信が南部氏からの独立を画策していたころ、豊臣秀吉は関東・東北地方に惣無事令(そうぶじれい)と呼ばれる私戦停止命令を発した。秀吉への臣従を決めた南部信直は天正17年(1588)、いち早く小田原に参陣し、為信による津軽伐り取りを惣無事令違反として訴えた。取り次ぎ役の前田利家は信直への手紙で「いずれ為信は処罰されよう」と返答しており、少なくともこの段階では、為信は秀吉政権への反逆者と見られていた。
 しかし、為信は秀吉とじかに接触することで、惣無事令違反の適用をまぬがれた。為信は秀吉に名鷹を贈り、秀吉も礼状を返してそれに応えたが、戦国大名にとって鷹がたいへん喜ばれる贈り物だったことを、為信は知っていたのだ。為信に対する評価は、文禄元年(1592)、前田利家が徳川家康に「為信は裏表のある人物(表裏之仁)で油断がならない」(「宝翰類聚」)と忠告した点に尽くされているが、そのような奸雄の道をあえて選んだところに、為信が戦国の世に生き残りを果たし得た理由があると思われる。

 慶長7年(1602)から同10年にかけ、為信は津軽と上方を2度往復した。これだけの短い期間に大きな移動を繰り返したのは、いわゆる参勤交代に近い意味合いがあったのだろう。為信にとって不運だったのは、同12年、長男信建(のぶたけ)が32歳の若さでなくなったことである信建は病気がちだったが、為信が京に不在の時は、名代として各所に出向く機会が多かった。信建が居たからこそ、為信は安心して津軽に戻り、領地経営に勤しむことができたのだ。後継者に先立たれた為信も同年末、後を追うように亡くなった。

 為信の次男信堅(のぶかた)は早世していたため、跡目は三男信枚(のぶひら)が継ぐしかない。急ぎ江戸に下った信枚の相続は認められ、そのまま津軽に戻った。しかし、国元では信枚の2代藩主襲封をめぐり、騒動が持ち上がっていた。信建の子大熊が家督相続の権利を主張し、信枚を廃するよう幕府に訴えたのだ。いわゆる「津軽大熊事件」である。大熊の後押しをしたのは、もと小田原北条氏の家臣だった津軽建広である。縁あって為信の娘をめとり津軽姓を名のった人だが、そうした経歴の持ち主が動きを見せているところに、戦国末期の慌ただしい世相が浮かび上がってくる。しかし、幕府は大熊らの訴えを認めず、信枚を正統な藩主とした。

 信枚の菩提寺である長勝寺(ちようしようじ)(弘前市)には、為信が京の仏師に刻ませたという肖像彫刻が安置されている。「髭殿(ひげどの)」とあだ名された魁偉(かいい)な風貌を伝える、みごとなできばえの木製坐像である。

(青森県史編さんグループ近世部会 本田 伸)