第36話 弘前城 〜築城400年〜

  • 2013.08.31 Saturday
  • 14:50
 


※弘前城

 弘前城(ひろさきじょう)は、青森県弘前市にある城です。別名・高岡城と呼ばれるこの城は、江戸時代に建築され、現存する天守としては東北地方では唯一のもので、小規模ではありますが、築城当初の縄張りの大部分がそのまま残っており、全国の城郭天守の中でも代表的なものである城跡として知られています。津軽統一を成し遂げた津軽為信(ためのぶ)によって慶長八年(一六〇三年)に計画され、二代・信枚(のぶひら)が慶長一五年(一六一〇年)、築城に着手し、翌年に完成しました。以後、弘前城は津軽氏の居城として、廃藩に到るまでの二六〇年間、津軽藩政の中心地として使用されました。平成二三年(二〇一一年)には築城四〇〇年の節目の年を迎えることとなりました。
 築城当時、天守閣は現在の本丸西南の隅にあり、五層の堂々たる天守がそびえ建っていました。寛永四年(一六二七年)九月十日、この日の亥の刻(午後十時頃)、天守に雷が落ちました。落雷により天守は炎上し、四層目には火薬を置いていたため大爆発を起こし焼失してしまいました。天守は、土台石垣から南の堀へ落ちて炎上し、火薬が爆破した時には、柱、白壁など遠く半径約十キロメートルあたりまで飛び散ったと伝えられています。このため所蔵していた鉄砲一五〇〇挺、槍二〇〇〇本、具足一〇〇〇領その他の武器及び、諸記録、系図、書籍その他仕器、宝物等が焼失してしまいました。2代・信枚が、父為信の意志をついで高岡城を築いてから一七年目の災害で、多くの武器、財宝を失う大事でした。この変事は、早速幕府にも報告され、秋田藩主・佐竹義宣は、鉄砲三〇〇挺を送って見舞いの使者を来訪させたといいます。(「弘前市史 藩政編」P107~P108弘前市)当時、この天守炎上は、祟りによるものと信じられていました。そこで、信枚はこの祟りから逃れるため、「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」と改称しました。この改称は信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によるものだといわれています。「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、 魔除けの意味があるそうです。


※弘前城公園内

 その後、武家諸法度により、自由に城を築くことも、五層以上の天守閣の建築も禁じられていたことから、天守は再建されず櫓で代用していました。文化七年(一八一〇年) 九代藩主寧親のとき、蝦夷地警備の功によって、七万石、十万石と石高が昇格したのを契機に、移築という名目で幕府の許可を取り、隅櫓を改造する形で新築され、翌年完成したのが、西南隅に三層を成し御三階櫓(ごさんかいやぐら)と称される現在の天守です。天守は、見る方向によって姿が異なる二正面の天守を成しているのが特徴で、三層三階建てで大屋根の高さが約十六メートルという小規模・簡素ながら堂々とした雰囲気をもっています。(「弘前城築城四百年」P39〜P40 清文堂出版株式会社)


※弘前城公園内

現在、天守は弘前公園有料区域内本丸に位置し「弘前城史料館」として津軽藩政時代の歴史資料を展示、公開しています。一階は刀や鎧など、戦で使用された武具を中心に、2階は火鉢や碁盤、武士の公服である裃などの生活用品を、三階は弘前城を含め全国四八の城郭の写真と、弘前城本丸御殿のミニチュア模型が展示されています。弘前城跡は、弘前公園として整備されており、公園内では、四月下旬から五月上旬にかけて「さくらまつり」が開かれ、明治時代以後に植えられた約二六〇〇本に及ぶサクラと、江戸時代以降の老松が調和し、全国から二〇〇万人以上の観光客が訪れます。秋には植物園でも「菊と紅葉まつり」が行われ、冬には「雪灯籠まつり」でも賑わいます。
                                                     (サト)
出典 弘前市ホームページ