第35話 高照神社 〜名君・信政〜

  • 2013.08.31 Saturday
  • 11:50
 


※高照神社内

 高照神社(たかてるじんじゃ)は春日四神とともに、津軽を統一した藩祖・津軽為信(つがるためのぶ)と、四代藩主・津軽信政(つがるのぶまさ)が祀られている、弘前藩において岩木山神社とともに厚く信仰された神社です。平成一八年(二〇〇六年)に境内の主要な建物が国の重要文化財に指定されました。
 四代・信政は、弘前藩きっての名君と名高い殿様で、新田開発・治水工事・植林事業・藩庁日記の開始・検地の復活など、様々な実績を残しています。特に日本各地から職人を津軽の地に招き産業の活発化を図りました。その中から、あの津軽塗も生まれたそうです。また神道の一派である吉川神道(よしかわしんとう)という教えを受け、その奥義を伝授されています。吉川神道の奥義を伝授されたのは、江戸時代の全国の藩主の中でも、徳川家光の異母弟である会津藩初代藩主・保科正之(ほしなまさゆき)と信政の二名のみとされています。信政は自分の廟所を高岡の地にせよと遺言を残して宝永七年(一七一〇年)に亡くなり、神式よって埋葬されました。高岡の地が選ばれたのは、藤原氏の氏神を祀る小社があったとされるためで、津軽氏が藤原姓を名乗ったことによるといわれています。信政が没した翌正徳元年(一七一一年)から二年かけて、五代・信寿(のぶひさ)が遺命によって高岡の地に保科正之を祀る会津(現福島県)の土津神社(はにつじんじゃ)を手本として社殿を造営し、吉川神道の創設者・吉川推足(よしかわこれたり)からは「高照霊社」の称号が与えられました。現在のように「高照神社」といわれるようになるのは明治初年の神仏分離以降の事であるとされています。殿配置は東西に一直線で鳥居、随神門(ずいしんもん)、拝殿、弊殿が並び、廊下を挟んで中門から本殿に至り、更に西方二〇〇メートルに廟所と墓所がある独特の構成となっています。このように吉川神道の教えに基づいた建造物群で現存するのは他に例がなく、更に江戸時代中期の神社建築の特徴をよく現していることから、平成一八年(二〇〇六年)七月、本殿をはじめとする建物八棟と信政公墓二基が重要文化財に指定されました。明治六年に郷社、同十年には藩祖為信も合祀され、同一三年には社格は県社となっています。
高照神社には数多くの資料や宝物が収蔵されています。

 
※高照神社内

・銘真守太刀拵・掛 四代信政が佩用していたものを、五代・信寿が寄進したとの伝来がある。

・津軽信政着用黒小實勝色威甲冑 江戸時代中期のもの。五代・信寿寄進。

・刀剣類十一口 明治十年の藩祖為信合祀に際して旧家臣等から奉納されたもの。

・高照神社奉納額絵馬五四枚 いずれも幕府の御用絵師や定府の藩御抱絵師の描いたもので、質・量ともに津軽地方では他に例を見ません。(「特別展 高照神社宝物展 図録 高照神社」P40〜P41 青森県立郷土館)


※津軽一族の旗印

 その他にも明治十年(一八七七年)に藩祖為信を合祀した際に旧士族たちが奉納した武具を中心とした一群や信政によって召し抱えられた、山鹿流兵学者である貴田孫太夫の子孫の貴田稲城から、明治三二年に奉納された三〇〇点以上にものぼる大量の絵図類があり、その他工芸品等の文化財を収蔵、公開しています。
                                                     (サト)
出典 「新編 弘前市史 通史編岩木地区」P342〜P345 弘前市岩木総合支所総務課