第17話 横内常福院 〜津軽と南部の架け橋〜

  • 2013.08.21 Wednesday
  • 17:29
※青森県青森市横内常福院

 明応7年(1498年)、堤氏が、古館(現在の松原町)から横内に移り、横内城(別名:鏡城、堤城)を築いたとされています。初代横内城主は南部藩第二〇代信時の四男・光康であるといわれています。光康は、堤川を開発し、現在の発展の礎をなした人物であると伝えられています。開発の目的は、物資の運搬だけでなく、河原に桜の木を植え春の花見も楽しめる川としました。(横内村誌 P57〜58 横内公民館)
※境内のネコ

 天正13年(1585年)に津軽統一を進めていた津軽為信が、4代目城主・弾正左エ門を攻め滅ぼします。この戦いで、弾正を失ったその妻、朝日御前は、夫や家臣の死後の冥福を祈り、朝日御前常福尼(あさひごぜんじょうふくに)として仏門に入ります。実際のところ、朝日御前は誰の夫人であるかはいまだにわかっておらず、謎が残っています。
 朝日御前は為信の伯母にあたり、没した際に為信は横内城跡にあった定額寺に寺領50石を与え、堤弾正孫六則景と朝日御前の菩提寺とします。そして、朝日御前の戒名、「常福院殿安養妙貞大禅尼」にちなみ寺号を「安養寺」、院号を「常福院」と改めます。
※堤弾正孫六のお墓

 現在、横内城跡地は朝日山常福院と寺名を改めています。最勝院をはじめとする津軽真言五山の隠居寺として、また堤家の菩提寺として、南部家と津軽家の縁の深い寺院として知られています。もともと定額寺と呼ばれていた常福院。この寺の名前は、大浦政信の娘であり、津軽為信の叔母にあたるという常福尼の名前にちなんだものだそうです。常福尼に限らず、堤家と大浦家は縁組が多く、当時の相互の勢力均衡を保つために結んでいたとされています。
 朝日山常福院の境内には随所に、城跡を思わせる堀が残っています。このことから、当時の領地の広大さが分かるのではないでしょうか。

出典 新青森市史 資料編2 古代・中世P646(青森市)
   青森市史 第十巻 社寺編 P486〜493(青森市)
                                                                     

(芳賀)
 


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