南部編第35話 斗南藩 〜会津藩、南部移住〜

  • 2014.03.10 Monday
  • 14:12

 


※斗南藩上陸の地

 明治元年(一八六八年)に起こった会津戦争は戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いです。会津藩は若松城に篭城して抵抗し、城外での遊撃戦を続けましたが、明治元年九月二十二日(十一月六日)、新政府軍に降伏します。
戊辰戦争で幕府側についた会津藩松平家は、所領を没収、会津藩は家名断絶となります。激しい篭城戦の末に武運なく敗れた会津の侍は全員、会津降人(降伏した人)として拘禁されました。主君・松平容保(まつだいらかたもり)と世子の善徳は場外の妙国寺に幽閉され、一般の兵士は謹慎所に移り、病人は青木村に退き、婦女子および六十歳以上、十四歳以下の男子は釈放されました。その後、容保父子および家族は東京に召喚されることになり、会津の地を離れました。


※むつ湾内

 会津藩が新政府軍に降伏し、若松城を明け渡すと、新政府軍は会津藩主・松平容保の代わりとして、戦争責任者の首を求めました。そこで会津藩の家老・萱野権兵衛が戦争責任を一身に背負って、切腹することになりました。萱野権兵衛は、「国家のために死ぬ事は覚悟しており、悲しむことでは無い。むしろ光栄である」と言い残して切腹したとされています。(「会津藩斗南へ」P13〜P16)
 降伏から一年後の一八六九年十二月五日、まだ生まれたばかりの松平容保の子・松平容大が家名を存続することで許され青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩することになります。
斗南藩の立藩に伴い、各地で謹慎していた会津藩士は、謹慎が解かれ、希望と悲壮感を抱き新天地となる斗南藩への移住が始まりました。斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、藩士らより約半年遅れて会津から、はるばる陸路にて旅立ちました。その中には老人や婦女子らに混じって、多くの傷病者たちもいました。しかも、宿泊を拒絶する旅籠も多く、粥をすすり、霙(みぞれ)にうたれても着替えさえなく、新封地斗南を遥かに拝しながら、無念の涙をのみ死んでいった者も数多くいたそうです。
当初、五戸代官所を藩庁としていましたが、下北半島の田名部・円通寺に藩庁を移し、斗南藩となりました。斗南藩三万石と言われる石高も、領地の大半が不毛の未開拓地であり、実際は七千石しかなかったといわれています。
斗南定住の第一歩として、田名部郊外の妙見平に住宅の建設を始めました。ここを斗南ヶ丘と名付け、土塀を巡らせ区画割をしましたが、斗南での慣れない開拓事業は困難と悲惨をきわめたそうです。南部藩、七戸藩にも援助を求め、特に、「三本木開拓の父」と呼ばれていた南部藩士・新渡戸伝(にとべつとう)からは、開拓に必要な農具の援助や開拓技術の伝授など、全面的な支援を受けました。苦しくはありましたが、地域の人々からの善意も寄せられました。これに応えるため全力を尽くして開拓に取り組みました。


※斗南藩上陸の石碑

 ところが、懸命な努力にもかかわらず、斗南藩士に決定的な打撃を加える出来事が起こります。廃藩置県です。それは斗南藩の消滅を意味し、大転機を迎えたのでした。当時、現在の青森県に存在していた八戸、七戸、斗南、弘前、黒石の各藩はそれぞれ県と改められました。田名部の円通寺に掲げられていた斗南藩庁の看板は斗南県庁に書き改められました。「これまでの苦労は何だったのか」藩士たちの間から、怨嗟の声が上がりました。まだ幼い松平容大が五戸から田名部に移り、藩士たちを勇気づけようと下北半島を巡回しました。可愛らしい姿に藩士たちは感激しましたが、それはひとときの喜びでしかありませんでした。廃藩置県をどう説明するか、このままでは不測の事態が起こりうることを危惧した藩幹部達は、東京にいた前藩主の松平容保に下北入りを要請し、明治四年七月二十日、当時藩庁が置かれていた田名部の円通寺に入りました。容保はひっきりなしに訪れる家臣たちと挨拶をかわし、ここに約一ヶ月滞在します。容保は別れの日に容大の名義で、旧臣たちに別れの布告を残し、東京を目指し帰って行きました。
 


※徳玄寺

 その後、弘前、黒石、八戸、斗南、七戸の五県を合併して陸奥国内に一県を置く合県運動があり、明治四年(一八七一年)九月四日、斗南、七戸、八戸、黒石、館(北海道の旧松前藩)の五県は弘前県に併合され、弘前城に県庁を置きました。九月二十三日には弘前県庁は青森にあった旧弘前藩御仮屋に移され、青森県庁と改められました。こうして斗南藩は完全に消滅し、会津藩の再興を夢見て斗南藩の創設に当たった会津藩の関係者は、それぞれ新しい暮らしを求めて散っていきました。

                                                     (サト)
出典 「会津・斗南藩史」P40〜P61 P112〜P120 斎藤勝己