南部編第22話 九戸政実の乱 〜九戸城落城〜

  • 2013.12.23 Monday
  • 13:56

 


※九戸政実の供養碑

 天正十九年(一五九一年)正月、三戸城で毎年恒例の新年参賀(家臣が領主に新年の御礼を申し上げること)を催しました。家臣の将たちは領主にお祝いを申し上げるならわしになっていましたがこの年は九戸政実と九戸派に属する者たちは欠席し、謀反の意志を明らかにしました。そのころ、奥州仕置きにより葛西・大崎氏が没落して多くの浪人が出たので、政実はその浪人らを雇い入れて、九戸の戦力を高めようとしている事が知られました。信直は再三警告しましたが、やめようとしません。南部の領主として黙って見ているわけにもいきませんが、東北も秀吉の配下に入って、惣無事令によって私闘が禁じられていたので勝手に九戸討伐を起こすわけにもいきません。(「物語 南部の歴史」P394〜P395)
 同年三月、九戸方の苫米地城攻撃を皮切りに、九戸政実は五千の兵を動かして挙兵し、周囲の城館を次々に攻め始めました。もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も防戦につとめましたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦します。危機打開のために開いた軍議において、自力での九戸政実討伐を諦め、秀吉に願い出てその力を借りて討伐するのが上策であると判断し、信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、六月九日には秀吉に謁見して情勢を報告しました。


※九戸神社

 九戸政実討伐と大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は号令をかけて、豊臣秀次を総大将に置き奥州再仕置軍を編成しました。


※長興寺

 関白秀吉は天正十九年(一五九一年)六月二十日、奥州再仕置軍出動の命令を下します。その命を受けた将軍たちはみな、秀吉軍の最高幹部といわれた人たちです。その他に命を受けて、東北の諸将達も、それぞれ兵をひきいて、この討伐戦に参加します。軍の総数は十万をこえる大軍でした。この仕置軍は、三道に分かれて一揆を平定しながら北に進み、姉帯城、根反城、その他を落とし進撃しました。これに抵抗した九戸政実は九戸城に籠もり、九月二日には奥州再仕置軍総勢六万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返しました。討伐軍は小城と侮り、直ちに攻撃を始めましたが予想とは違い攻撃の度ごとに却って損害を被るだけでした。九戸城は馬渕川、白鳥川、猫渕川に三方を囲まれた天然の要害であり、糧食は豊富に蓄え兵器は完備され籠城の兵は僅か五千といえども、益々勢いが増すばかりです。九戸城は討伐軍の総攻撃にも攻め落とされることはありません。それどころか討伐軍の死傷者は増えるばかりで、軍の規模の大きさも足かせとなりました。結果、兵糧不足となり飢えに苦しんだ者たちは村民に暴力を働き、その上悪疫まで流行しだしました。討伐軍の諸将達は、九戸城はわずか五千人がこもるだけの城だから、数万の兵でこれを攻めたてれば、一日か二日もすれば落とすことが出来るだろうと目論んでいたものの、いざ戦ってみるとすでに八日を費やしても九戸城は落城しそうにもありません。それで各軍の大将たちは、この城は無理な攻撃を仕掛けても、ただ味方を失うばかりであると判断し、しばらくの間は、鉄砲をもって撃ち合うなど、遠攻めにして日を過ごしました。幹部の将たちが集まって、その対策を相談しました。そこで九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「降伏さえすれば一命は助かり、その功により、所領はそのまま安堵されるだろう」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させます。和尚は場内に入り諸将連判の降伏勧告の書状を政実に渡し降伏を勧めました。政実の弟・実親は一人反対しましたが、九戸政実は降伏を受け入れて、実親に後を託して九月四日、家臣らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏しました。しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられました。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられています。降人となった政実らは豊臣秀次の本営に送られ、秀次の命により斬首され京都でさらし首にされました。こうして、主を引き倒そうとした九戸政実一党は天下を敵として滅亡しました。

                                                    (サト)
出典 「南部町誌 上巻」P414〜P428 南部町、「三戸町通史」P72〜P77三戸町、「田子町誌」P309〜P310 田子町