南部編第20話 南部氏の勢力地図の移り変わり

  • 2013.12.20 Friday
  • 13:48
 


※浪岡城跡

津軽為信が現れるまで、現在の青森県全域を支配していたのは南部氏でした。
ところが、津軽為信が独立の動きを見せた16世紀後半、南部家の客将である北畠氏の浪岡城と、南部氏26代当主・南部信直の父・石川高信の石川城は、為信によって滅ぼされました。

これにより、この地の勢力図は大きく塗り替えられていくことになります。
青森県全域を支配していた南部氏の勢力は半分近く減り、青森県東側だけとなってしまいました。


※石川城跡

この後、津軽為信は豊臣秀吉に鷹を献上するなどの工作を駆使し、津軽地方の支配を認められることになり、青森県西側を手に入れました。
 南部信直はこれに不満を持ち、秀吉に訴えましたが、結果は変わることなく南部氏の勢力は縮小しました。
不満を残したまま、信直は秀吉から朱印状を受け、「南部7郡」を治めることとなりました。

その朱印状からは以下のことを約束することという「覚書(おぼえがき)」が記されていました。
第1条 南部のうち7郡は、南部信直が責任を持って治めること。
第2条 信直の妻子は京都に住まわせること。
第3条 領内を検地し、財源を確保して京都在住の費用をつくること。
第4条 領内の家臣の城を壊し、その妻子三戸城下に住まわせること。
第5条 以上のことに背く者には秀吉が処罰を下すので厳しく申し付けること。
このように、領土を与えられた後も厳しい制約のなかで治めていかなければならないのがわかります。

「南部7郡」については諸説がありますが、糠部・閉伊・鹿角・久慈・岩手・志和・遠野だとされています。

 


※黒石城跡

「南部7郡」を治めることには成功しましたが、信直の統治は安定せず、九戸政実の乱が起きるなど、その後も苦労することになります。
信直はその後、本拠地を三戸から九戸、そして盛岡に移ました。


※南部信直夫妻の墓

寛文4年(1664年)に、28代当主・南部重直が死去すると、領地は、重直の2人の弟に分領され、七戸重信には盛岡藩8万石、中里直房には八戸藩2万石が与えられ、それぞれを治めることになりました。

一方、津軽地方の支配を認められた津軽為信は弘前藩47000石の初代藩主となりました。その後、明暦2年(1656年)に4代・信政が幼くして藩主となった際、幕府の指示により信政の後見人となった叔父・津軽信英に、弘前藩より5000石が分知されました。これが黒石津軽家の始まりです。黒石津軽家は、文化6年(1809年)に加増されて1万石となり、大名となりました。


出典 青森県立郷土館内資料 南部信直と奥羽仕置
   青森県史 資料編 近世1 近世初期北奥の成立と北方世界P29、P100(青森市)
   三戸町史 上巻
(メガネ)