南部編第7話 南部光行、糠部入部

  • 2013.12.07 Saturday
  • 13:45


 


※相内観音堂入口

青森県三戸郡南部町下在所の隣に、南部家の始祖・南部光行が糠部に入部した際、初めて宿をとった、相内観音堂があります。
南部光行は、八戸に到着した後、馬渕川沿いに西へ向かい、現在の三戸郡南部町の相内にある観音堂で一夜を過ごしました。

翌日になると、観音堂に村人たちが集まり、光行が領主であることを知ると、村人のうちの一人、佐藤兵衛(さとべえ)の家に南部一行を案内しました。
佐藤兵衛は光行に「仮にも領主の館には一日といえども非常の備えが必要です」と言い、
急いで村人を集め、徹夜で家の周りに堀を掘らせました。
こうして夜のうちにできた館「一夜堀の館」と呼ばれるようになりました。
光行は、佐藤兵衛を家臣に加え、この館で正月を過ごしたと言われています。

 


※相内観音堂

しかし、光行が三戸に来たのは建久2年(1191年)の12月29日で、本来の正月には準備が間に合わず、1日遅らせた為、大晦日、正月がずれる風習となりました。
この時南部領内は小の月と呼ばれ、旧暦の12月29日が大晦日であり、これを1日遅らせたことにより、12月30日が大晦日になるという風習が続きました。
この風習が続き、現在の暦で1月2日が元旦というのは、明治時代まで続いたとされています。

 


※「えの坂」

佐藤氏の子孫は代々南部家に仕え、九戸政実の乱を機に三戸に帰還し田子通り16箇村の世話人、まとめ役となり下参郷(しもさごう)氏と名乗るようになりました。
その後、八日町に屋敷を賜り、田子丹波と改め田子氏を名乗ります。
南部信直が南部晴継に命を狙われ、隠れていたといわれている熊野神社の隣は、佐藤兵衛屋敷跡があります。
屋敷跡の脇には「えの坂」と呼ばれる坂があり、昔は佐藤兵衛橋(さとべえばし)と呼ばれていたのが、省略されていき、「衛(え)の坂」と呼ばれるようになったといわれています。
佐藤氏は光行を歓迎するため、踊りの名手を呼び集め、エボシやヒタタレ姿で農事になぞった舞を披露しました。
これが今も残っている郷土芸能「えんぶり」の起源といわれています。

現在は、遺構のほとんどが民家になっており、屋敷跡はありませんが、広大な石塁がかつて大きな屋敷があった雰囲気を出しています。(南部氏と家臣の幻影 糠部の大地 P35〜38)

 


※「えの坂」石塁

南部光行は村人に歓迎されながら、「一夜掘の館」で冬を越し、春になると平良ヶ崎城の築城工事に取り掛かりました。

ここから、南部氏の歴史が始まるのです。

出典 三戸通史 P51〜52 (三戸町)
   南部氏と家臣の幻影 糠部の大地 P35〜38 (目次和夫) 
(メガネ)