南部編第2話 奥羽合戦前の東北

  • 2013.12.02 Monday
  • 13:43
 


※岩手県平泉町


 東北地方は、平安時代前までは、「道奥(みちのおく)」と呼ばれ、文化の遅れた野蛮の地のイメージが付きまとい、住民も蝦夷(えみし)とよばれ、異民族・野蛮人扱いされていました。その一方で、金をはじめとし、名馬・鷹の羽・アザラシの皮など都で珍重されている特産品の産地及び供給地として重要な地でもありました。
 平安時代後期、「陸奥国(むつのくに)」と呼ばれていた東北地方には、奥六郡を拠点とする安倍氏、出羽仙北三郡を拠点とする清原氏、二つの大豪族が存在していました。

前九年の役
 当時の朝廷は安倍氏の勢力拡大を恐れ、貢租を怠っていたことを理由に、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任に安倍氏討伐を命じました。これが前九年の役のはじまりです。
この戦いで朝廷軍は敗れ、朝廷は源頼義に陸奥守・鎮守府将軍として、再度、安倍氏討伐に向かわせました。青森県史資料編古代1文献資料P457青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P18 河出書房新社)
しかし、奥羽に向かう途中、恩赦の知らせが届き、安倍氏は放免となり、討伐は中止となりました。
安倍氏の族長・頼良は服従し、名が将軍と同音であったので配慮し、安倍頼時に改名しました。この討伐を成功させ、源氏の名声を不動のものにしようと目論んでいた頼義は、国府に帰る途中、野営していた部下の陣が攻撃を受け、その攻撃は頼時の長男・貞任の仕業であるとし、真相を確かめることなく、頼時に貞任を差し出すよう命じました。しかし、頼時はそれを拒んだため、再び戦に発展しました。


※安倍館遺跡跡

  そんな中、将軍配下であった藤原経清(藤原清衡の父)は安倍側に寝返りました。経清の妻は頼時の娘であったため、安倍氏との内通の疑いがかけられ、死の危険を感じたためでした。(青森県史資料編古代1文献資料P455 青森県)
 この時、頼義の嫡男・義家(八幡太郎)もこの戦いに参加していましたが、安倍軍には全く歯が立たず、戦いの途中、頼時は戦死しましたが、それでも嫡男・貞任を中心に全く戦力が衰えることなく、頼義軍は大敗し、残ったのは頼義、義家含めたったの7騎だったといいます。 困った頼義はもう一つの豪族・出羽仙北の清原氏にすがりました。清原氏の参戦により形勢は一気に逆転し、安倍軍は厨川まで敗走し、立てこもって最後の抵抗を見せただけで滅ぶことになりました。(青森県史資料編古代1文献資料P459青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P19〜P20河出書房新社)
 貞任は深手を負ってとらえられましたが、すぐに息を引き取り、首は丸太に釘で打ちつけられ、朝廷に送られました。弟の宗任は伊予に流され、藤原経清は頼義に最も恨みを買っていたこともあり、長時間苦しみを与えるため、さびた刀で鋸引きで斬首されました。(青森県史資料編古代1文献資料P465青森県)
 経清の妻子は清原氏に引き取られ、妻は武則の子・武貞の妻となり、子・清衡は養子となりました。
 この功績により源頼義は正四位下伊予守となり、清原武則は従五位下鎮守府将軍に補任され奥六郡が与えられました。清原氏は奥羽の覇者となり、前九年の役は幕を閉じます。
 


※前九年の役の石碑

 清原武則は鎮守府を国府の近くで、安倍氏の本拠であった衣川に拠点を移し、清原氏本流の地位を固め、武貞、真衡と引き継がれ、真衡は武則と同様鎮守府将軍となりました。
 真衡はそれまでの同族連合のような共同組織から、本流の宗家を突出させ、兄弟を含め他の一族親類を従者とする惣領制に強引に改めました。その結果、一族内の不協を招き、後3年の役へと発展していきます。(青森県史資料編古代1文献資料P489青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P23〜P24河出書房新社)

後三年の役 
 事の発端は真衡の養子・成衡に嫁を迎えるにあたり、前九年の役でも功績のあった吉彦秀武が祝いに駆け付けた際に、秀武を無視し、囲碁に興じて長時間待たせたことに腹を立てた秀武が祝いの品として持参した砂金を庭にぶちまけ、本国の出羽に帰ってしまったことにはじまります。
 この行為に激怒した真衡は秀武を成敗すべく、兵をつれ出羽に向かいました。これに呼応するように弟・清衡、家衡が留守となった真衡の館へと迫りましたが、真衡が軍を引き返して来たので引き返しました。再び秀武成敗のため出羽へ向かいましが、またもや清衡、家衡軍が真衡の館を攻撃しました。しかし、準備をして待ち構えていた真衡軍と鎮守府将軍となった源義家の軍により大敗を喫して義家に降伏しました。しかし、真衡自身は出羽へ向かう途中、病のため急死してしまいました。
 もともと義家に敵意のない清衡と家衡は許され、真衡の遺領である奥六郡を南北に分け、南三郡を清衡に北三郡を家衡に与えました。このことを不服とし、家衡は応徳3年(1086年)、清衡の館を攻撃し、清衡の妻子及び一族はすべて殺され、清衡自身は何とか生き延び、義家に助けを求めました。(青森県史資料編古代1文献資料P491青森県)
 清原一族の争いに端を発した後3年の役は、源氏対清原一族へと発展し、ここで性格が一変してしまいました。
 義家と清衡は軍を立て直し、再び家衡軍と対しました。家衡軍には叔父である清原武衡が加わっていました。家衡・武衡連合軍に苦戦を強いられた義家・清衡連合軍のもとに義家の弟・義光(新羅三郎)が官職を辞して都から駆けつけ、源氏は総力を挙げて戦いに臨み、とうとう勝利を得ました。
 義家はこの戦いに勝利し、恩賞を得られるものと思っていましたが、朝廷はこの戦いを義家が勝手に始めた私戦としたため、恩賞はもとより、戦費の支払いも拒否され、さらに陸奥守を解任されてしまいました。結果として、義家は主に関東から出征してきた将士たちに私財から恩賞を出すことになってしまいましたが、このことが却って源氏と義家の名声を高めることになり、後に源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれています。(青森県史資料編古代1文献資料P492青森県、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都P24河出書房新社)

奥州藤原氏の誕生
 戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れ、姓を藤原に復し、藤原清衡を名乗り、清原氏の歴史は幕を閉じました。その後、清衡は朝廷や藤原摂関家に対し、献上品や貢物を欠かさなかったため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、事実上の奥州支配を容認しました。
 奥州藤原氏は中央から派遣される国司を拒まず受入れ、奥州第一の有力者として、それに協力
するというう姿勢を最後まで貫き通しました。そのため、奥州は政争とは無縁の地帯となり、奥
州藤原氏17万騎といわれた強大な武力と政治的中立を背景に、源平合戦の最中でも平穏な中での
独自の政権と文化を確立し、奥州合戦が起こるまで、奥羽の覇者として君臨し続けるのでした。


出典:青森県史 資料編 古代1文献資料(青森県)、図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都(河出書房新社)


 
   -haru-