南部編コラム12話 八戸藩2代藩主・南部直政と「生類憐みの令」

  • 2013.07.14 Sunday
  • 01:13

 徳川5代将軍綱吉は学問を重視し、幕政にも能力のある者を適材適所に配置し、外様大名でも登用する潔癖・果断な将軍でした。八戸藩2代藩主・南部直政を側用人にまで取り立てたのもそういった理由からでした。その反面、大名や旗本が少々の過失を犯した場合でも領地を没収されたり、厳重な処分を課すという激しい気性の持ち主で、稀代の
暴君であったともいわれています。
 綱吉の名を有名にしたのは天下の悪法といわれた「生類憐みの令」の発令でした。
 綱吉には徳松という世継ぎがいましたが5歳で亡くなり、その後子供は生まれませんでした。その理由として、綱吉が帰依していた真言宗大僧正・隆光が「世継ぎが生まれないのは、上様(綱吉)が前世で多くの動物を殺傷したのが原因ですので、これからは動物を慈しみ、特に上様は戌年生まれですので、犬を大事にされれば、問題は解決するでしょう」と綱吉の母・桂昌院を通して告げたことがきっかけとなり、この気違いじみた法令の発令につながったといわれています。綱吉が「犬公方」と呼ばれたのもこのためです。

 この「生類憐みの令」は魚や鳥を食料として飼うことを禁じたほか、犬に到っては、犬の戸籍をつくり、毛色や年齢・牡牝・生死・失踪まで届出をさせ、江戸に作られた犬小屋には数万匹の野良犬が収容されていたといわれています。この法令に違反した者には厳しい処罰が課せられ、犬を殺した者は死罪にされるほどの厳しい法令でした。

 綱吉の信頼厚く、然も幕府の重職を務める直政はこの「生類憐みの令」を遵守するため、八戸藩では4名の生類奉行を置き、屋敷内の池の鯉を数えさせたり、屋敷への鮭鱒以外の魚や貝の持ち込みを禁止しました。違反者への罰則も厳しく、かみついた犬を殺しても重罪、スズメを捕まえたり、鶏の卵を食べても罪になるというほどでした。
 元禄元年12月に藩邸の鶏小屋がイタチに襲われ、卵を抱いていた親鳥が殺され、卵が割れかけていたという事件が発生し、鳥小屋の番人には手錠がかけられました。直政は残った卵はほかの親鶏に抱かせ、傷ついた卵は丁重に処分し、鶏小屋はイタチが入らないよう修繕を施すよう指示しました。傷ついた卵は立派な容れ物に詰め、上包みを施し、人気のない場所に埋めた後、ようやく番人の手錠を許した、と当時の八戸藩の記録に残されています。
 そのほか八戸藩では、動物の皮製品、鳥の羽を使用した品物使用を禁止していました。
 元禄年間は、八戸藩内も大凶作に見舞われ、人間が飢え死にするものもあるさ中に、元禄8年11月に「今年は飢饉につき、百姓共が、猪・鹿・猿等を殺し、食糧に致す者もあるとか。これはかねてからの仰せつけの通り、堅く禁止する。また犬を飢えさせてはならぬ。捨て犬があったならば、これを飼立おき、役人に届け出よ」という、信じられないようなお布令が出されたとのことです。

 ある旗本が江戸城から下城の途中、野犬に襲われ、その野犬を切り殺したため、その処分が問題となりました。「生類憐みの令」によれば、犬を殺した旗本は死罪ということになるのですが、側用人の直政が反対したといいます。
 このことが綱吉の不興にふれたため、側用人の職を辞したともいわれています。

 天下の悪法といわれ、多くの庶民の恨みをかった「生類憐みの令」はみちのくの果ての小さな城下町にも多大な影響を与えたのでした。

出典:みちのく南部八百年地の巻、八戸藩の悲哀
                                                       -haru-