南部編コラム25話 南部氏唯一の女の殿様・清心尼

  • 2013.07.25 Thursday
  • 13:07

 慶長19年(1614年)、根城南部家20代・直政の急死により、後継者とする男子がいなかったため、根城南部家では次の後継者が決まるまで、一時、直政の未亡人(本家・盛岡藩初代藩主・南部利直の姪)を当主とすることになり、本家である南部利直もこれを承諾しました。
 以前から八戸地方を手に入れようと思っていた利直は、一旦、直政の未亡人に21代当主をさせ、後に自分のめがねにかなった婿を取らせ、根城南部家を意のままに操ろうと企んでいました。そのことを察していた直政の未亡人は髪を切り、仏門に入り、「清心尼」という尼になりました。尼に婿を取らせることはできないため、利直は婿を取らせることはあきらめ、表面上は自分が後ろ盾となり、八戸地方を治めることにしました。

 利直に自領の田名部の地(下北半島)を取り上げられたとき、清心尼は抵抗を見せました。
利直は「田名部の治安が落ち着くまで、当分の間、預かる」と言ったので、利直に当初書くつもりのなかった「田名部借上証文」を書かせることに成功したのです。
 この元和3年(1617年)3月31日付の証文により利直は毎年、「田名部を返せ」と催促されることになります。

 利直は清心尼の娘婿に自分に都合の良い養子を送り込もうとしますが、清心尼にきっぱりと断られてしまいました。ここにも、根城南部家を利直の意のままにはさせないという、清心尼の意地が伺われます。
 根城南部家22代当主には、新田家からの養子・直義に決まりましたが、寛永4年(1627年)、今度は利直から遠野・横田城への移封を命じれました。
 度重なる利直の仕打ちに、家臣たちの怒りも頂点に達し、一戦交えようという空気になりました。隠居していた清心尼ではありましたが「ここで利直に戦を仕掛ければ、主君・利直に背いたという口実で、九戸政実のように幕府に取り潰されてしまう」と根城南部家のため我慢するよう家臣を説得したといいます。

 遠野に移ってからは当主である直義は盛岡城常駐となったため、遠野には家老が置かれましたが、実質的には清心尼によって治められたといわれています。
 清心尼は八戸で14年、隠居してからは遠野で17年、実質的に31年もの間、当主を務め、59歳で生涯を終えました。

出典:八戸市史(近世資料編)、みちのく南部八百年(地の巻)平成南部藩ホームページ
                                                      -haru-