南部編コラム21話 私戦禁止令

  • 2013.07.22 Monday
  • 11:59
 南部信直が九戸政実と対峙していた天正15年(1587年)、豊臣秀吉は「関東・奥(奥州)惣無事令」を発しました。関東・奥羽の大名間の戦いは私戦と見なし、違反した者は処罰するという、いわば「私戦禁止令」であり、翌16年に関東・奥羽の諸大名に達せられました。九州を平定した秀吉の次の目標は関東・奥羽の諸大名を服従させることで、小田原の北条氏討伐はその始まりでした。秀吉は小田原攻めに参陣し、服従した者には現在の所領を保障し、参陣しない者の所領は没収する方針でした。天正18年、前田利家は家臣の内堀四郎兵衛を使者として信直に書状を送り、速やかに小田原に参陣、秀吉に拝謁し服従することを勧告しました。ですが信直は九戸政実を警戒し、動きの取れない状況でした。そこへ八戸政栄が、信直側の諸将と協力し留守を守ることを申し出て、早く参陣し秀吉の援助を得るように勧めました。信直は留守中の防備を手配し、4月上旬、嫡子・利直以下将兵1000人を率いて三戸を出発、出羽仙北を通り小田原をめざします。4月24日八王子で前田利家に会ってから、小田原にいる秀吉に拝謁。服従を誓い、6月初旬三戸に帰りました。7月、北条討伐が終わり、7月17日秀吉は奥羽仕置のため小田原を出発し北上します。これにより小田原に参陣しなかった者の領地は没収される事となりました。同月27日秀吉は宇都宮の大森に着き、羽柴秀次は前軍を率い白河に着きました。信直は白河で秀次に面会した後、大森に行き秀吉に面会することができました。秀吉は喜び着衣一かさねと7月27日付の朱印状を与えます。この朱印状拝領によって信直は豊臣政権の支配体制に組み込まれ、これまで戦国大名から脱皮して近世大名としての道を歩み始める事になります。豊臣政権の公認を得た結果、信直に謀反した九戸政実は豊臣政権に敵対する者として処罰される事になるのです。

出典:南部町誌 上巻
                                                     (サト)