南部編コラム3話 名君と呼ばれた八戸藩2代藩主・南部直政

  • 2013.07.03 Wednesday
  • 11:38
 南部家で最も学識豊かで、名君といわれた八戸藩2代・南部直政は、父であった初代藩主・
南部直房が暗殺により急逝したため、8歳で家督を継ぎました。
 直政はちちが暗殺されたこともあり、国許で危害を加えられぬような事件が発生しないよ
うにとの、幕府の配慮で江戸藩邸で生活し、儒学の勉強に励みました。十五、六歳の頃には
文筆の才に優れていることは江戸中でも有名となり、当時江戸では学問の最高の学校であっ
た「弘文院の学士・林整宇」(はやしせいう)のもとで勉学に励み漢学詩文についても極め、
学識豊かな青年大名へと成長しました。
 直政は江戸藩邸に「文林館」という学問の研究所を設け、自らが講師となり藩士に学
問の講義を行っていました。
 このすぐれた学才が、学問好きであった徳川5代将軍・綱吉に気に入られ、直政は異例の
出世を遂げることになります。
 直政が気に入られたことを物語るものとして、「福島五万石加増」の話が伝えられてい
ます。
 元禄年間の初め頃、朝鮮の国王から幕府へ、1双の屏風が贈られましたが、この屏風を
幕府の役人たちが開こうとしましたが、開くことができず、どうやらこの屏風を開く鍵は、
添えられていた一編の詩の中にあるだろうということになりました。
しかし、家臣はもちろん、有名な学者たちも、この詩の意味を解読することができず、困り
果てた綱吉は、直政に解読させてみようということにしました。直政はその屏風に添えら
れていた詩を何度か黙読し、「屏風のこの部分を押せば開くであろうと、この詩は語ってい
ます」と申し上げたので、早速、直政の示した場所を押したところ、たちどころに屏風は開
いたといいます。
 このことに、たいそう感心した綱吉は、直政に対し、福島5万石を授けるといいました。
 しかし、直政は「ご辞退したい」と申し出ました。この話を聞いていた側近の柳沢吉保が
直政の言葉を取り成し、「八戸藩は開藩して、まだ間もない藩であり、国替えによる家臣の
労苦を察して栄転を望まずということであるので、その代り、家宝として長く伝えることの
できる品を下賜されては」と申し上げたので、ビイドロ製の鏡1面を下賜され、現在も「御拝
領御鏡」(ごはいりょうおんかがみ)として八戸に伝えられ、市の文化財の指定を受けてい
ます。同時に唐織の能装束、珊瑚玉の印籠緒じめ2顆、伽羅入りの銀扇香合も拝領したと伝
えられています。
 その他にも
1.直成敗を行うこと。(領主の判断で重罪人を処刑すること)
2.火の見櫓を城下に設置すること。
3.城下への出入りを監視する枡形を作ること。
4.町内毎に二本貫の柵を作ること。
5.傍示杭(高札)をたてること。
6.庄屋の名称を使用すること。
7.名主名称を使用すること。
以上の権限「八戸の7特許」と呼ばれる特権を与えられました。

 その後、直政は貞享4年(1687年)26歳で御詰衆(※1)に、翌年には御側衆(※2)に、
3か月後には綱吉の
側近・柳沢吉保と同じ幕府第一の要職である側用人(※3)に登用されました。
側用人は体調不良のため3カ月で辞職することになりますが、この体調不良は、暗殺を目論ん
でいた盛岡藩の家臣により毒を盛られたことが原因とされています。そして、直政は39歳の若
さで病死したとのことです。

※1御詰衆(おつめしゅう):将軍そばで仕え、小間使いのような職務。新参の外様大名が
なれるようなものではありませんでした。
※2御側衆(おそばしゅう):将軍の秘書役ともいう役職。幕閣との取り次ぎ役もしていま
                           した。
※3側用人(そばようにん):常に将軍近くに仕え、天下の政治の取りまとめ行う役職。
                           現在でいうと内閣官房長官。
                           本家である盛岡藩主でさえ、気軽に会うことのできないほどの要職。


出典:みちのく南部八百年地の巻
                                                                                                                       -haru-