南部編コラム5話 静御前のその後

  • 2013.07.05 Friday
  • 11:50
 
 文治5年(1185年)11月、義経と別れた静御前は追っ手にとらえられ、鎌倉に 
護送されました。
 翌年3月、鎌倉についた静御前は義経の行方などについて、厳しい取り調べを
受けましたが、この時すでに、義経の子を身ごもっていたので、取り調べは頃
合いを見て切り上げられました。
 出産が近づき、静御前は安達新三郎宅で男児を出産しました。女児なら助か
ったのですが、男児であれば殺すことに決まっていたので、鎌倉の由比ヶ浜に
捨てられ殺されたといわれています。
 しかし、殺されたはずの男児は、「宇治川の先陣」(※1)で有名な佐々木四
郎高綱により、ひそかに奥州茂市で育てられ、成人して、佐々木四郎太郎義高と
名乗ったといわれています。
 その後、義高は朝廷の命を受け、奥州閉伊郡(岩手県)を治めることになり、
閉伊郡田鎖に城を築き善政をしいたといいます。
その子孫は閉伊地方の十三カ所をそれぞれ領有し、「田鎖十三家」と称され大
いに繁栄したといわれています。
 この伝承は義高の子孫といわれている茂市家(旧 佐々木家)や田鎖家の系図・
「茂市刈屋一揆の由来」(茂市家保存)などによるものですが、この種の伝承は
閉伊川や刈屋川の流域ではよく耳にされているということです。

 義経が八戸に滞在中に地元の豪族・佐藤家の娘と関係を持ち、女児・鶴姫が生
まれたという伝承があります。
 義経は佐藤家の娘が身ごもったことを知らずに北を目指して旅立ってしまった
ため、鶴姫は父親の顔も知らずに育ち、やがて17,8年の歳月が流れ、美しい姫と
なった鶴姫は、地元の若い侍・阿部七郎と恋仲になりました。
 この阿部家は鎌倉の源頼朝の近習として仕えていたという家柄でした。
鶴姫の父・義経が謀反人として頼朝から追われ、逃亡している立場であるのに、
頼朝を主君とする阿部家の跡取りが義経の遺児である鶴姫と結ばれることは到
底許されることではなく、思い余った二人は、かねてから耳にしていた義経を頼
りに後を追って逃げたといいます。
 鶴姫たちは夏泊半島で追っ手に捕らわれそうになり、半島の断崖まで追い詰め
られたため、互いに胸を刺し違えて、共に海へ飛び込み、命を絶ったとされてい
ます。
 この半島は美しい椿が咲くことで有名ですが、白い椿の花が一輪も咲いていな
いのは、鶴姫と阿部七郎の二人の若い血で染められたからだといわれています。
 また、この半島は白鳥の飛来地があることでも有名ですが、ここに飛来する白
鳥には義経の魂が宿り、この地で悲恋のために最期を遂げた娘・鶴姫の霊を慰め
るために、毎年、飛来するのだと伝えられています

※1 宇治川の先陣:宇治川の戦い(寿永3年(1184年)に源義仲(木曽義仲)と
源頼朝に派遣された源範頼、源義経とで行われた宇治川付近で行われた合戦)に
において、雨のように放たれた矢の中をかいくぐり、宇治川を渡り敵陣への一番
乗り(先陣)を、源義経軍の佐々木四郎高綱と梶原源太景季が争い、佐々木四郎
高綱が先陣を切って、誉れを得たという伝承。

出典:義経北行、吾妻鏡辞典
                                  -haru-