南部編第3話 南部氏の出自

  • 2013.12.03 Tuesday
  • 10:54


 


※初代・南部光行(三戸町立歴史民俗資料館提供)

 南部氏は新羅三郎義光(源義光)を祖とする甲斐源氏の一族であり、さらに遡ると、清和天皇の第6皇子・貞純天皇の子・源経基となります。(八戸市史通史編P96〜P97)
 経基は平安時代中期に起きた、関東での平将門の乱、瀬戸内海の藤原純友の乱の鎮圧のための討伐に向いましたが、大した功績も挙げられなかったものの国司等を歴任し、鎮守府将軍の地位まで上り詰めました。

 新羅三郎義光は後三年の役の際に兄・源義家とともに、清原武衛、家衛を破り甲斐守、等を経て従五位下刑部少輔となりました。(青森県史資料編古代1文献資料P492青森県)
 義光は馬術・弓術に長け、現在も小笠原流・武田流に伝えられています。義光は南部氏の祖とされているほか、武田氏、平賀氏、佐竹氏、簗瀬氏の祖でもあります。 

 


※源経基

 南部氏が東北の地にやってきたのは、南部氏の始祖であり、加賀美遠光の3男・南部光行が源頼朝の命による奥州討伐の際に武功を挙げ、その褒賞として馬淵川流域一帯の糠部郡を拝領したことから始まります。(青森県史資料編古代1文献資料P492青森県)

 加賀美遠光は新羅三郎義光の孫・源清光の四男で、弓矢の名手であったと伝えられています。1171年(承安元年)、宮中に怪異が起こったので、高倉天皇は遠光に鳴弦の術(※1)を行わせました。すると怪異は無事に治まり、褒賞として不動明王像(山梨県身延町大聖寺所蔵、国重文)と近江国志賀郡を下賜され、「王」の一字の使用を許され家紋は三階菱に「王」の字を配しています。また、治承・寿永の乱(※2)には光行の兄・小笠原長清と共に参加し、平家滅亡後の1185年(文治元年)には源頼朝より御門葉(※3)の一人として重きを置かれ、頼朝の家臣として「吾妻鏡」には、しばしば記述がみられます。

光行は、石橋山の戦い(※4)では源頼朝に与して戦功を挙げ、甲斐国南部牧(山梨県巨摩郡南部町)を与えられ、この時、南部姓を称したとされています。そして、頼朝の信頼を得ていた光行は奥州合戦への参加することになります。
光行とその一族が奥州へ下る際に、甲州の領地は光行の三男・実長に引き継がれます。実長は甲斐の国波木井に居住したことから波木井実長とも呼ばれていました。 また、実長は鎌倉幕府に対立する日蓮を庇護し、日蓮宗に帰依した人物でもあります。この実長から4代後が、根城南部家を築いた南部師行です。(みちのく南部八百年 天の巻P18〜P21伊吉書院)

南部師行は、建武の中興の際、鎌倉幕府を倒し、奥州に新しい政治体制を築こうとする後醍醐天皇の命うけた北畠顕家と共に奥州に下ります。そして陸奥の国府・顕家の指示を受け、八戸に根城を築き、北奥羽の統治支配に尽くします。ここが南北朝時代の数少ない南朝方の拠点となったのです。師行の子孫は5代に渡って、師行の遺言を固く守り、南朝方を支持し続けます。後の「南部勤皇五世」とよばれたその精神は、日蓮宗の開祖・日蓮上人の感化を受けた先祖・実長から受け継がれたものです。本拠地である甲斐国波木井郷は実長の四男・長義の家系が継続し、長男・実継の家系が根城南部氏として存続していきました。(みちのく南部八百年 天の巻P104〜P113伊吉書院)


 


※源義光

 ※1 鳴弦の術 弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により気を祓う退魔儀礼。 魔気・邪気を祓う事を目的とする。 後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。 鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。
※2 治承・寿永の乱 中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
※3 御門葉 鎌倉幕府においては源頼朝 (鎌倉殿)の一門としての処遇を受けた者をいう。
※4 石橋山の戦い 平安時代末期の治承4年(1180年)に源 頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦い




出典:八戸市史通史編(八戸市)青森県史資料編古代1文献資料(青森県)、南部八百年 天の巻(正部家種康 伊吉書院)




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