南部編第25話 八戸根城南部氏、遠野・横田城移封される 〜南部利直の陰謀〜

  • 2013.12.25 Wednesday
  • 10:12


※鍋倉城跡

 寛永4年(1627年)、八戸根城南部氏22代・直義は、盛岡藩初代藩主・南部利直から遠野・横田城への移封を命じられました。(八戸市史通史編P140八戸市)
 これは八戸氏の権威と家格により横田城下の不穏を封じることと、藩境を接している伊達藩に対する警護の任にあたることを理由としました。
 利直はかねてから、八戸地方の直轄支配をもくろんでいました。
八戸根城南部家20代当主・直政が急逝し、21代当主を直政の妻とすることを認めたのも、後に利直のめがねにかなった婿を取らせ、自分の意のままに支配しようとしたからで、この策略は直政の妻が髪をおろし、仏門に入り清心尼という尼となったことで失敗に終わりました。(みちのく南部八百年地の巻P104〜P107伊吉書院)



※鍋倉城跡板

 また、利直は森林や鉱山等の豊かな資源と便利な港をいくつも持っていた八戸根城家の所領である下北半島の田名部を手にいれようと、幕府に対し、重臣の本多佐渡守を通じて、「田名部の地は、領主が女であると侮り、悪人どもがけんか口論や刃傷沙汰などのもめごとが続出しているため自分が代わって支配したい」と八戸根城南部家の知らないところで持ちかけ、最終的にはその希望が幕府に認められ借り上げという形で盛岡南部領に編入されるといった経緯もありました。(みちのく南部八百年地の巻P109〜P110伊吉書院)
 遠野へ移封ということになれば、八戸氏の廃絶を意味するため、直義はいったん辞退しましたが、それに固執し過ぎると、一戦交えることになり、幕府がついている利直の思うつぼとなり、九戸政実のように取り潰される可能性もありました。
 そのため、八戸氏の命脈を守るため、泣く泣く従う以外方法はありませんでした。(みちのく南部八百年地の巻P128〜P132伊吉書院)
 遠野移封後、直義は利直のそばに仕えていましたが、寛永9年(1632年)利直が亡くなり、盛岡南部家28代・重信の代には家老職を務め、直義に続く代々の領主は盛岡藩三家老(遠野南部家、中野家、北家)の一人として盛岡城に常勤したため、
遠野には家老を置くことが通例となりました。直義が入城した時は奥の院はむしろ敷きであり、諸士屋敷は28件が散在し、板戸代わりにむしろを下げているだけという荒廃ぶりでした。



※清心尼の墓碑

 城下町の造営事業は直義移封直後から元禄年間(1688年〜1704年)まで続き、延宝2年(1674年)に直義が74歳で亡くなると、事業は2代領主となった嫡子・義長が引き継ぎました。



※付近にいた鹿

 延宝9年(1681年)遠野五町(六日町、一日市町、新町、穀町、裏(仲)町)の町屋敷数は240件弱でしたが、約100年後には608軒にも増えました。これは、遠野六度市における内陸、海産物の交易中継商業の発達によるもので、六度市は「入
荷千駄出荷千駄」といわれるほどの賑わいだったと伝えられています。
 明治元年(1688年)、戊辰戦争が起こり、奥羽越列藩同盟の一員となった盛岡藩が討幕側に敗れると、遠野城下に進軍してきた松本藩兵により、横田城は破却されてしまいました。(平成南部藩ホームページ)


出典:八戸市史通史編(八戸市)、みちのく南部八百年 地の巻(伊吉書院)、平成南部藩ホームページ


 
   -haru-