南部編第12話 安東氏との戦い 〜南部氏の栄枯盛衰〜

  • 2013.12.13 Friday
  • 13:59
室町時代応永年間(1394年〜1428年)半ばの頃、東北日本海側の支配をめぐって
南部氏と安東氏は激しく争っていました。


※三戸南部氏の居城 聖寿寺館跡

 三戸南部氏は南北朝時代から秋田仙北地方を支配下におさめ、南朝方の根城南部氏が版図を確保していたが、秋田湊の安東氏が南部領を侵しはじめたので、三戸南部氏13代当主・守行は根城南部氏とともに秋田へ軍をすすめ攻略しました。
そして、1418年(応永25年)、守行とその嫡子・義政は十三湊に拠点を置く十三湊安東氏の居城を次々と攻撃し、陥落させ、敗れた安東氏は松前へのがれ、三戸南部氏は津軽全土を手中にしました。(八戸市史通史編P127八戸市)


※安倍・安藤氏の碑(唐川城跡)

その後、1432年(永享4年)再び秋田湊の安東氏が再び仙北地方に侵攻してきたので、大軍を派遣し撃退しました。(弘前市史資料編P240弘前市)
この時、仙北地方に守行の3男で下久慈城主・金沢右京亮家光を代官として配置しました。
この頃、三戸南部氏は全盛期を迎え、「南旧秘事記」によると東北地方太平洋側は現在の仙台市大崎まで、日本海側は新潟県までの広大な領地を有していたとされています。三戸南部氏14代当主・義政の後は相次ぐ当主の交代により、周辺豪族への統制力にも翳りが見え、根城南部氏は後花園天皇の勅許を得て、蛎崎蔵人の乱を平定し、下北半島を所有することになり、根城南部氏は嫡流である三戸南部氏に拮抗する勢力を持つまでになりました。
戦国乱世の時代になると三戸南部氏は次第に衰退の色が見え始め、所領は糠部数郡を有するのみとなりました。
仙北地方を巡って金沢氏と安東・小野寺氏との間で熾烈な戦いが続いており、寛政年間(1460年〜65年)になると小野寺氏を主力とする出羽勢の反撃が始まり、金沢右京亮家光は敗死し。1468年(応仁2年)に至り、南部氏は仙北地方支配を諦め、
家光の子家信は本領の久慈へ帰ることになりました。
その後家信の嫡子・光信(のちの大浦光信)が三戸南部氏の命により、安東氏の備えとして津軽地方種里へ派遣されることになります。




※光信公の館(鰺ヶ沢町種里)

光信は奥州藤原氏3代・秀衡の弟で十三湊安東氏当主・藤原秀栄を祖とする津軽氏の嫡男で、家信の娘を室としたことで金沢氏の家督も継承することになりました。(弘前市史資料編P240弘前市)
そして、光信から5代後の大浦為信が津軽統一を成し遂げ、弘前藩誕生へと続きます。
南部氏の中では同族同士の中での争いが多く、下剋上が当たり前の時代ではあり、大浦為信の津軽統一についてもその一つといえます。
また、九戸政実の乱も家督相続争いから端を発し、日本全土を巻き込んだ大乱となりました。
この他、根城南部氏の遠野移封のことや、盛岡藩10万石のうち2万石を八戸藩に分領した際もきな臭い事件が起こるなど、南部氏の歴史は同族同士の争いの上に作られてきたといっても過言ではないといえるのです。

出典:八戸市史通史編(八戸市)、弘前市史資料編1(弘前市)、サイト「武家家伝南部氏」
-haru-