南部編第5話 源義経伝説 〜源義経北行伝説〜

  • 2013.12.05 Thursday
  • 10:20



※小田八幡宮(義経伝説)

 日本史上、最も有名な武将・源義経。
 日本の正史とされる「吾妻鏡」によると、義経は兄・源頼朝に追われ、平泉の奥州藤原氏3代秀衡のもとへのがれたが、秀衡が亡くなると、4代泰衡の攻撃を受け、妻・娘とともに高舘にあった持仏堂で悲運の最期を遂げたとされています。(義経北行上P8ツーワンライフ出版)


※熊野神社(義経伝説)

 しかし、亡くなったのは影武者・杉目太郎行信で、義経は密かに平泉から逃れ、北へ向かい、大陸へ渡ったとされる「源義経北行伝説」があります。(青森県史民族編資料P437青森県、義経北行上P178〜P179ツーワンライフ出版)
 義経一行は平泉から遠野を経て釜石、宮古へ。そして、三陸沿岸を北上し、八戸の種差海岸に上陸したと伝えられています。義経一行が通ったとされる経路周辺には、たくさんの言い伝えや縁の物が残されています。(義経北行上P286ツーワンライフ出版)

・からかさ石 月山神社近くにあり、義経一行が入山の途中、突然大きな石が頭上(平泉町束稲山) から落下したのを、弁慶が傘で受け止め救ったといういわれを持つ巨岩。(義経北行P199ツーワンライフ出版)
・荒覇吐神社 安倍氏の守護神。地元では「旅の神・軍の神」として崇められて(奥州市伊手) おり、義経一行が吉内金山を」離れるとき訪れたといわれています。(義経北行上P202ツーワンライフ出版)
・阿闍羅淵 この淵を登るために義経が手をかけたといわれる「判官手がけの松」、(住田町上有住) 弁慶が軍資金を積んだ牛車を牛車ごと押上げ、崖を登ったときの足跡だといわれる「弁慶の足跡」が残されています。(義経北行上P202ツーワンライフ出版)
・駒形神社 義経の愛馬「小黒号」が亡くなった地に、弁慶がさい配して、「小(遠野市上郷) 黒号」を祀るために建てたといわれており、現在は馬の守護神とされています。(義経北行上P209〜P210ツーワンライフ出版)

・中村判官堂 笛吹峠を越えた義経一行が宿泊したとされる場所に祀られていたも(釜石市橋野町) のが、この地に移築されました。別当の話では「笹りんどう」の紋を着けられたお姿が見られる」とのこと。この他、三陸には「判官」と名のつく神社やお堂がいくつかあります。判官神社(川井村箱石)、判官堂(宮古市長沢)、判官神社(宮古市津軽石)、判官稲荷神社(宮古市本町)など。(義経北行上P222ツーワンライフ出版)
・日向日月神社 この神社には、義経と静御前との間に生まれた子とされる「佐々木(新里村日向) 四郎太郎義高」が祀られています。(義経北行上P243〜P247ツーワンライフ出版)
・黒森神社 義経一行は黒森三中に籠り、3年3カ月の修行中に、を写経したとさ(宮古市黒森山) れる大般若経が奉納されています。(義経北行P258〜P259ツーワンライフ出版)
・弁慶岩 義経一行が宇留部の浜に来たとき、オナツという娘に一目惚れした(普代村力持) 弁慶が、村の若者とオナツを巡って力比べをしたといいます。その地から放り投げた岩が「力持」という場所に落ち、その岩が「弁慶岩」だといわれています。(義経北行上P272〜P232ツーワンライフ出版)
・諏訪神社 義経の捕討を命じられた北畠重忠は、平氏討伐の際、義経と生死を(久慈市長内町) 共にした仲でした。畠山軍により八方塞となって死を覚悟した義経は、「どうせ討たれるなら、重忠の手にかかって」と考えて義経は烏帽子に白い鉢巻姿で、馬に乗り、堂々と向かって行ったといいます。重忠は泣く泣く弓に矢をつがえ、「決して判官殿に当たりませぬように」と諏訪大明神に念じつつ放ちました。矢は義経の頭上を越え、老木の松に刺さったといいます。そのあと、重忠は後を追うことはせず、松に刺さった矢を抜き取り、この地に諏訪大明神を建立したのが、この神社の起源とされています。(義経北行上P281〜P282ツーワンライフ出版)
・小田八幡宮 義経が写経したといわれる大般若経が保存されているほか、義経が(八戸市川原木) 京都から持参した毘沙門天を安置するために毘沙門堂を建てたと伝えられています。(義経北行上P297〜P299ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)
・オガミ神社 義経と一緒に八戸まで来た正妻・北の方が亡くなった場所には、の(八戸市内丸) ちにオガミ神社が建てられます。この神社には北の方が使用していたとされる手鏡が残されているほか、義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝えられています。(義経北行上P300〜P302ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)
・矢止めの清水 義経が高館という場所から、どこまで遠くへ矢を飛ばすことができ(八戸市売市) るか弁慶に命じると、4卆茲稜亙ダ遒鯆兇┐疹貊蠅忙匹気蝓△修量陲鯣瓦と、水がわき出たことから、この名がつけられたといわれています。(義経北行上P295〜P296ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)。
・弁慶石 三八城神社の境内に成人の胸までの高さほどの巨岩に足跡のよう(八戸市内丸) なくぼみが残されており、これが弁慶が残したものだといわれています。(義経北行P296ツーワンライフ出版、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説)
・日本中央の碑 この石碑を見た義経は「三熊野の 続く小山の ふみ石を 見るに(東北町坪渡地区) つけても 都こひしき」と三十一文字を詠んだとされています。(義経北行上P295〜P296ツーワンライフ出版)
・貴船神社 義経を慕って河内の国から追いかけてきた浄瑠璃姫は、この地で義(青森市野内) 経との再会を果たします。しかし、長旅の疲れから病に倒れたため義経は家臣の鷲尾三郎経春に看病を命じ、この地を後にしたと伝えられています。(義経北行上P317〜P319ツーワンライフ出版)
・福島城 奥州藤原氏3代秀衡の弟・秀栄を頼り十三湊へ向かい、福島城に迎(五所川原市相内) えられたといわれています。(義経北行上P322〜P326ツーワンライフ出版)
・厩石、義経寺 義経一行が蝦夷へ渡るため、三厩へさしかかると、大時化のため足(外ヶ浜町三厩本町) 止めされ、波風が一向に治まる気配がなかったため、義経は母の常盤御前からもらった正観音像に三日三晩祈り続けると、満願の朝、
白髪の翁が現れ3頭の白い竜馬を授けたといいます。(義経北行上P322〜P326ツーワンライフ出版)


※八戸の海岸

すると、波風も治まり、その竜馬に乗って海を渡ったとされています。これが三厩、厩石の起源になったと義経寺に伝えられています。
蝦夷へ渡った義経はその後、大陸へ渡り、チンギス・ハーンになったという伝説へとつながります。
※他にも青森県、岩手県にはたくさんの伝説やその縁の物が残されています。


出典:青森県史民俗編資料(青森県)、義経北行 史実と伝承をめぐって(ツーワンライフ出版)、八戸市ホームページ八戸の源義経北行伝説
 -haru-