南部編第15話 三戸城  〜本三戸城焼失〜

  • 2013.12.16 Monday
  • 11:26
 



※三戸城跡

 三戸城は南部氏の宗家である三戸南部氏の本拠地であり、二四代・南部晴政(なんぶはるまさ)が築いた城です。
 晴政は素行上に難点があり、周囲からの評判は芳しくなかったとされていますが、叔父で勇将として有名な田子城主:南部高信などの補佐と、戦陣における活躍もあって、岩手・下北・鹿角・津軽などを平定し、南部氏の家運を大いに開いた功績もある人物です。(「三戸町通史」P67〜P68 三戸町)
 城は領内全般から「三戸城」と呼ばれていましたが、三戸地方では「留ケ崎城」(とどめがさきじょう)や「三戸高城」(さんのへたかじろ)とも呼ばれ、また山城であったため、一般には「城山」(しろやま)と呼ばれ親しまれて来ました。大正4年に三戸町長:北村芳太郎が、城が糖部郡の鎮めであった事と、城跡に糖部神社を祭るところから、南部氏の了解をうけて命名した※1雅名「糖部城」とも呼ばれます。(「三戸城 改訂版」P1〜P2 三戸町観光協会)



※聖寿寺館跡 看板

 天文八年(一五三九年)、後に本三戸城(もとさんのへじょう)と呼ばれる聖寿寺館(しょうじゅじだて)が晴政に謀反を企てた家臣・赤沼備中(あかぬまびっちゅう)に放火され焼失する事件が起きます。赤沼備中と奥瀬安芸が領界に関して争い、晴政に裁き を求めました。晴政は赤沼備中の主張は少しも聞き入れず、一方的に奥瀬安芸を支持するありさまでした。しかも美人として評判の高い赤沼備中の妻を、しばしば城内に招き酒宴にはべらせ寵愛する始末だったそうです。怒った赤沼備中は、弟:七郎と共謀し、風の強い夜、城に忍び込み放火しました。この時、重要書類の入った皮籠(かわかご)二つを取り出しただけで、伝来の重宝古文書はことごとく焼失してしまったといいます。その後、放火した赤沼備中は、奥瀬安芸を切って馬で城外に逃れましたが、諏訪の平で討ち取られます。この火災の後、新たに三戸城を築き移ったとされています。(「南部町誌 上巻」P411〜P412 南部町)
 三戸城は標高 一三〇mの独立丘陵に築城された山城で、両側には馬淵川と熊原川が外堀に見立てられ、両川が浸食した岩壁は天然の要害を呈していました。(「三戸町史 上巻」P104 三戸町)

 

※馬場館

 天正十九年(一五九一年)、南部信直は同族の九戸政実の乱を豊臣秀吉軍と共に平定すると、九戸城を福岡城と改称し居城としました。三戸城は九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより石垣を持った城に普請され、本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられています。大きさは南東が四〇〇m、西南が一五〇〇mの規模を誇り、九戸の乱以後の大規模な改修で石垣や三階櫓、藩庁などが設けられました 三戸や九戸は南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、 本拠を岩手郡不来方(いわてぐんこずかた)に移すことになりました。南部利直の時に盛岡城を居城とし、利直の子南部重直の時代に完成しました。それより三戸城は貞享二年(一六八五年)からは代官が常駐して、城の名も三戸御古城と呼ばれるようになりました。



※三戸城周辺

 現在、三戸城跡は城山公園として整備され、山上には昭和四二年(一九六七年)に「温故館」(おんこかん)という三層四階の模擬天守が築かれました。また、遺構として※2搦手門(からめてもん)が法泉寺の山門として、表門が龍川寺の山門として、代官所門が観福寺の山門として、それぞれ移築されています。
※1雅名(がめい) 物の風流な呼び名。詩歌などで用いる。
※2搦手門(からめてもん)城門の一つで、大手門に対して開かれる搦手口の門。
                                                     (サト)