南部編第4話 奥州合戦と南部氏

  • 2014.02.26 Wednesday
  • 11:24


岩手県西磐井郡平泉町、国道4号線沿いに中尊寺があります。
中尊寺というのは山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院で構成されている一山寺院です。
中尊寺は嘉祥(かしょう)3年(850年)比叡山(ひえいざん)高僧慈覚大師円仁(こうそうじかくだいしえんにん)によって開山されたといわれています。

平安時代の後期、前九年の役で奥州が戦乱となり、秋田県の豪族、河内源氏と安倍氏が戦い、安倍氏が滅びました。
その後、後三年の役が勃発し、清原氏との戦いで藤原清衡が勝利し、奥6郡(岩手県中南部)奥州藤原氏の祖となります。
藤原清衡は江刺郡から平泉に居を移し、長治2年(1105年)に中尊寺を築きます。
その中で、現存する金色堂は三間四面の小堂ながら、平安時代の漆工芸、金属工芸、仏教彫刻の粋を凝縮したものであり、奥州藤原氏の葬堂として、日本史上に独特の位置を占めてきました。
その後、平泉は二代・藤原基衡(ふじわらのもとひら)が毛越寺、三代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が無量光院を建立し、仏教文化がとても盛んになります。
また、中尊寺から約1キロ離れた所に、義経堂があり、そこには源義経が居候をしていました。
源義経は、平家討伐の功労者だったにも関わらず、その功績に報いるどころか、実の兄、源頼朝に追われる側となってしまい、逃げていたところを三代・藤原秀衡に匿われていました。
文治5年(1189年)源頼朝は、平家を討伐した弟・源義経に謀反人の罪で28万の軍勢を率いて、奥州に攻め入ってきました。
この時、源頼朝の家臣として従っていた南部氏の祖である、南部光行が登場するのです。
この時すでに源義経をかくまった張本人の3代・藤原秀衡はすでになくなっており、跡を継いだばかりの4代・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に対して、源義経を差し出すように圧力をかけました。
藤原泰衡は源頼朝の強い要求に屈し義経のいる館に攻め入り、源義経を自害においやりました。
しかし、藤原泰衡は源頼朝の命に従い源義経を討ったにもかかわらず、源頼朝は奥州攻めに踏み切りました。
藤原泰衡は源頼朝の軍勢から逃げながら、1通の手紙を送りました。
「義経をかくまったのは父、秀衡であって、私はその成り行きを知らない。私はあなたの命令に従って義経を討った。なのになぜ征伐されるのか。私に罪はない。」
しかし、源頼朝はこの手紙を無視し、藤原泰衡を追い続け、泰衡は逃げている最中に郎党に討たれました。その泰衡の首が金色堂に納められているのです。
南部光行はこの奥州合戦で平泉に進軍し、その途中で、敵将一人とその弟を斬り、泰衡軍を敗走させた手柄により、源頼朝から糠部5郡を賜ったと「南部史要」に書かれています。

ここに奥州藤原氏は滅び平泉の栄華は終わりました。
3代・藤原秀衡が亡くなってから、わずか2年の出来事です。
現在中尊寺にある金色堂を完成させたのは、4代・泰衡が討伐された後でした。
この金色堂を完成させ、修復し続けたのは、泰衡を討った源頼朝本人であり、後ろめたい気持ちがあったのかもしれません。





参考書籍 歴史発見2巻 中世の地域と宗教
(メガネ)