南部編第8話 根城南部氏の出自

  • 2013.12.08 Sunday
  • 14:21
  三戸南部氏初代・南部光行は、奥州平泉の藤原氏を破った手柄により、源頼朝から北東北一帯を賜ったと伝えられています。
 


※根城広場入口


 正慶2年/元弘3年(1333年)、北畠顕家は、後醍醐天皇より陸奥守に任じられ、義則親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国府に赴任します。このとき、光行の子孫・南部師行もこれに従い奥州の地へ入ります。師行は顕家より国司の代官(糠部奉行)に任じられ、元弘4年/建武元年(1334年)、南朝方の拠点の一つとして根城を築いたといわれています。根城は、南北朝時代から江戸時代初頭までの約300年間、八戸の中心でした。以来、この根城を本拠とした南部氏の系統は、「根城南部氏」(または八戸氏)と呼ばれるようになりました。

 南部家の系統は複雑に絡み合っています。一足早く糠部に来て三戸に城を築いたと伝えられる南部光行の子孫を「三戸南部氏」というのに対し、南部実長から始まり八戸に根城を築いた南部師行の子孫を「根城南部氏」と呼びます。三戸南部氏と根城南部氏の関係は、本家と分家の関係になります。

 


※南部師行像

 南部光行と一族が奥州へ向かう際、出身地の甲州は、光行の三男・実長に託されます。根城南部氏の始祖・実長は、父光行から波木井郷飯野御牧を分与され、波木井(山梨県身延町)に移り、波木井六郎実長と称しました。実長の子、二代実継から八代政光に至る時代は、鎌倉幕府の衰退、二度の元寇、幕府滅亡、室町幕府の成立、南北朝の争乱とその統一という激動の時代で、根城南部氏の一族は、これらと深く関わりました。(根城ものがたりP12〜13デーリー東北新聞社)

 元亨2年(1322年)、津軽の安藤氏一族の乱が起こると、無力の幕府はその鎮定を二代・実継に依頼し、子の長継を奥州へ出兵させます。長継は、子の貞継を連れて出陣・参陣しています。長継は嘉暦3年(1328年)までその任務にあたり争乱を解決しました。これが、波木井南部氏の奥州進出の糸口となります。

 実継・長継親子は、倒幕の戦いの中で、元弘2年/正慶元年(1332年)に実継が幕府軍に捕らえられ斬刑に処され、長継は、その後は南朝の陣営に加わり、正平7年/観応3年/文和元年(1352年)に北朝軍との戦いで戦死しました。(「根城ものがたり」P34〜37デーリー東北新聞社)

 


※根城模型

 師行は、三戸南部氏四代政光の弟・政行の子として生まれますが、長継の養子となって四代を継ぎます。師行は、元弘3年(1333年)、新田義貞の倒幕挙兵の招きを受けましたが、自らは甲州にあって動かず、奥州から兄・時長、その子行長、師行の嗣子・政長を参加させます。楠木正成など反幕府軍討伐のため、幕府軍の主力を率いて西上した足利尊氏は、謀反して京都の六波羅探題を覆滅しました。一方、政長等の加わった義貞軍は、鎌倉幕府を滅ぼします。師行は、幕府滅亡後八戸に根城を築き、その後の波木井南部氏の根拠地とし、八戸南部氏が誕生しました。やがて、南北朝時代にはいると、師行は弟・政長を根城に残し、後醍醐天皇につき足利尊氏方の軍勢と戦いましたが、延元3年/建武5年/暦応元年(1338年)に和泉国石津で戦死しました。この年、足利尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府が成立します。師行が戦死した後、政長が根城南部氏の五代目を継ぎ、糠部郡を支配しました。

 延元4年/暦応2年(1339年)、政長に尊氏は「所領の事望みに任すべし」と書状を送り、帰降を勧めますが政長は応じませんでした。さらに政長は、これを無視したばかりか、津軽の足利方の曽我氏を抑え、一方では岩手の西根に出兵し要塞を構えました。興国2年/暦応4年(1341年)、足利尊氏の根城攻略と政長追討命令が下り、興国3年/暦応5年/康永元年(1342年)根城は曽我勢に包囲されましたが、政長は陣頭に立って敵の本陣に切り込みこれを破ります。この政長の奮戦は、退潮を続ける南朝方の軍事行動の中で一段と際だったもので、後村上天皇は大変喜び、褒美として太刀と甲冑を政長に授けました。(根城六百五十年記念誌 八戸根城と南部家文書P178〜184八戸市)

 正平5年/貞和6年/観応元年(1350年)、政長は、六代信政が政長よりも先に亡くなっていたため、根城を中心にした八戸を信政の長男信光に譲り、七戸を信政の後家・加伊寿御前に譲り、亡くなります。祖父・政長の死により、根城南部氏七代目を継いだのは信光でしたが、奥州の南朝方の勢力が根城南部氏だけとなり、三戸南部氏と争うことになりかねないと考え、根城や領地を三戸南部に託して、正平20年/貞治4年(1365年)頃甲州の本領波木井に引き上げます。

 八代・政光は建徳3年/文中元年/応安5年(1372年)、兄の信光から家督を譲られます。政光は成人すると、母の加伊寿御前が政長から譲られた七戸の地を根拠地とします。この後、政光は甲斐に在住していますが、南北朝合一の元中9年/明徳3年(1392年)頃、将軍足利義満の密命を受けて、三戸南部氏13代南部守行が、政光の元をたずねて降伏勧告を行います。その際、政光は
「累世南朝の皇恩に浴した恩義は忘れられない。狐城によって敵対するのではなくて、二君に仕えることを恥とする」
「むしろ自刃を棄て、農奴となるとも足利将軍の粟を食みたくない」
と意志を変えず、守行は三戸南部と根城南部の親善関係を説き、
「甲州波木井の本領を去って、後醍醐天皇よりの天戴地八戸に居住するならば、南朝より受けた封地に居して、将軍に君事しないで済むように取り計らいたい」として、将軍に取り計らい、八代・政光は、甲州の領地を捨て、八戸へ移住します。

 根城にやってきた政光は、兄信光の子長経に九代目を継がせ、自分は隠居して七戸城に移り住みます。また、晩年には甥の長経に八戸の地を譲って、自身は七戸に居を構え応永34年(1427年)に亡くなります。居城とした七戸城は政光の実子・政広が継ぎ、子孫は七戸氏として続きました。

 また、波木井南部氏初代実長の三男・長義は、甲斐を離れず波木井にあって生涯を久遠寺外護に尽くしました。その子孫も代々久遠寺外護に尽くしましたが、大永7年(1527年)に波木井義実は、甲州に進入した駿河今川勢に内応した故をもって武田信虎(信玄の父)に討たれ、地頭家としての甲斐波木井氏は滅亡しました。

出典 歴史と伝説 南部昔語 P2〜7 (伊吉書店)
   青森県史 資料編 中世菊酩氏関係資料P352〜357(青森県)
   根城築城六百五十年記念誌 八戸根城と南部家文書P13〜268(八戸市)
   根城ものがたりP12〜106(デーリー東北新聞社)
 
芳賀