南部編第34話 廃藩置県で盛岡藩消滅

  • 2014.01.16 Thursday
  • 13:37


※桂城公園入口(大館城)

 秋田県大館市、大館市役所のすぐ近くに桂城公園があります。ここにはかつて大館城がありました。大館城の歴史は、天正10(1582)以前に出羽国の豪族、浅利勝頼(あさりかつより)により築城されたといわれています。戦国時代、浅利氏、南部氏、秋田安東氏、津軽氏の争いの場となります。この地を勝ち取ったのは秋田安東氏で豊臣政権下において、秋田安東氏の所領となりました。関ケ原の戦いの後、秋田安東氏は常陸国(現茨城県の大部分)に移封され、代わりに佐竹氏(源氏)が支配することになりました。
  慶応4年(1868)、戊辰戦争が開戦し、終戦までの約1年間の戦いの中で、大館城やその周辺で、盛岡藩と久保田藩(秋田藩)による激しい戦いがありました。 戊辰戦争当初、盛岡藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していましたが、最終的に家老・楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、久保田藩に攻め込むことを決定しました。慶応4年(1868)8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、盛岡藩は圧倒的な兵員と新式銃・大砲で攻め込み、大舘地区南部の十二所・扇田地区を占領し、大館城に迫ります。 対する大館城守備していた久保田藩は、大館城周辺に布陣を置き、戦に備えました。 同年、8月22日に一発の大砲とともに大館城攻防の戦闘が開始されました。盛岡藩の攻撃により、久保田藩は大館城まで撤退し、籠城しましたが最後は自らの手で城に火をつけ、撤退しました。大館を占領した盛岡兵は徹底的な焦土戦を繰り広げ、大館は火の海となり、町家29軒を残して町は消失しました。(戊辰戦争と秋田 P56〜64) 



※大館城復元図

 大館城を落城させ、久保田城を目指した盛岡藩だが、要衝のきみまち阪で西洋式の訓練を受けた佐賀藩兵らの到着により、状況は一変します。藩境まで押し返され、そこで膠着状態になり、次々に奥羽列藩同盟の同盟藩が離脱する状況に、ついに盛岡藩も降伏を選択しました。 


※扇田神明社

9月22日盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ久保田藩側に派遣し、25日に沢尻村で正式に盛岡藩の降伏が締結され、これでこの地区の戦闘は終結しました。
  降伏後、盛岡藩20万石は没収され、白石13万石(現、宮城県白石市付近)転封され、廃藩置県によって明治4年(1871)、盛岡藩は消滅しました。 戊辰戦争によって大勢の人が犠牲となり、町や村が戦火に巻き込まれました。 撤退の際に南部兵は、久保田藩の各地の集落を焼き討ちにしています。このため、これらの地区では盛岡藩に対する恨みが明治後期まで残っていたといわれています。 

 

※戊辰戦争で打ち込まれた銃弾

出典 戊辰戦争と秋田 P56〜64(無明社出版)
   南部町誌 下 P33〜42(南部町)   
                                                 (メガネ)