南部編第19話 南部信直の一生

  • 2013.12.15 Sunday
  • 15:51
 



※三戸城跡

  南部氏を再び甦らせた南部氏第26代当主・南部信直は戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将です。天文15年(1546年)、信直は南部家第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子(側室の子)として岩手郡一方井で生まれます。従兄弟である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その長女の婿となり、養子として三戸城に迎えられた信直。しかし元亀元(1570年)、晴政に実の子供・南部晴継が誕生すると、次第に晴政から疎まれるようになり、信直も身の危険を感じ、天正4年(1576年)には養子の座を退き、田子城に引き籠ります。



※田子城復元図

 天正10年(1582年)、晴政が亡くなり晴継が第25代当主となります。しかし同年、晴継は謎の暴漢集団により暗殺されます。この事件には信直が暗殺したとの説もあります。しかし近年では、信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたともいわれていますが、その真偽はわかっていません。晴継の跡継ぎとして、一族の九戸政実の弟・実親を推す意見を抑え、南長義や北信愛から支持された信直が、南部氏当主第26代当主を継承することとなります。このことを九戸政実は恨み、南部家中は不穏な状態が続きます。



※九戸政実の乱の巻き絵

  天正14年(1586年)、信直は高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼし、勢力を拡大します。その翌年には北信愛を代理にたて、加賀の前田利家に対し、豊臣政権下に従うことを告げます。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領を安堵されます。小田原征伐後、秀吉が奥州仕置で遠征した際には、浅野長政と共に先鋒を務めます。九戸政実が起こした反乱では、秀吉の援軍を得て鎮圧し、政実や九戸実親らを処刑しています。天正20年(1592年)の朝鮮出兵では、秀吉に従って肥前名護屋城に参陣するも、朝鮮には渡らず、帰国します。



※盛岡城内

  肥前から帰国した信直は、盛岡に居城を定め、築城に着手し、領内の基盤を固めるために集中します。九戸の乱後、南部氏は伊達政宗と領地を隣接することになり、盛岡への本城の移動は、政宗の侵略に対する防備であったといいます。慶長4年(1598年)、盛岡城の完成前に、福岡城(九戸城)で亡くなります。青森県三戸郡南部町の三光院では、信直夫妻の墓をみることができます。信直の跡を継いだ長男・利直は初代盛岡藩史となり、その血統は受け継がれていきます。
 
出典 青森県史 資料編 近世1 近世初期北奥の成立と北方世界P29 P100(青森市)
   田子町史 上巻P304〜311(田子町)
 
芳賀