南部編第26話 藩境塚、津軽と南部の境

  • 2013.12.26 Thursday
  • 10:50
 奥州街道のほぼ終着地点にある野辺地町は、弘前藩と盛岡南部藩との境でもありました。柴崎地区、国道4号線沿いにある「藩境塚」は、江戸時代に南部領と津軽領との境界の目印として奥州街道沿いに築かれた塚です。塚の底面直径は約10m、高さは約5mで、南部と津軽にそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから「四ツ森」とも呼ばれています。築造時期は明らかではありませんが、元禄14年(1701年)、弘前藩と盛岡南部藩で確認した境際絵図には、両藩ともに藩境塚が書かれています。(盛岡市中央公民館蔵 南部・津軽との境際絵図より)
藩境塚
※藩境塚
 奥州街道のほぼ終着地点にある野辺地町は、弘前藩と盛岡南部藩との境でもありました。柴崎地区、国道4号線沿いにある「藩境塚」は、江戸時代に南部領と津軽領との境界の目印として奥州街道沿いに築かれた塚です。塚の底面直径は約10m、高さは約5mで、南部と津軽にそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから「四ツ森」とも呼ばれています。築造時期は明らかではありませんが、元禄一四年(一七〇一年)、弘前藩と盛岡南部藩で確認した境際絵図には、両藩ともに藩境塚が書かれています。(盛岡市中央公民館蔵 南部・津軽との境際絵図より)
 
 藩境塚の間を流れる「二本又川(境の川)」と烏帽子岳山頂を結ぶ線が境界とされていましたが、延宝元年(一六七三年)、馬門村の新十郎が山中で杣取り(そまどり 山林から木を伐採すること)をしていたところ、弘前藩の山見役に連行され、厳重な注意を受け帰されたと記録に残っています。また、延宝8(一六八〇年)には、黒石の杣夫婦が馬門の山中に小屋をかけ、材木を切り取っていたことから、馬門境役の閉伊口弥五右衛門と飯田源之丞がたびたび引き上げるよう注意したが、それを無視し小湊代官新岡左五右衛門と畑井甚兵衛に書状を送り、杣夫を引き上げさせたと記録に残っています。このように山中の境界があいまいなため、たびたび論争が起こっていたようです。(「野辺地町史」 p276野辺地町史編さん刊行委員会)

 このような問題を解決するために、元禄十二年(一六九九年)に弘前藩、盛岡南部藩共に正保年中の藩境地図を見合わせる事になりました。結果として清水峠から二本又川までの長さが異なっていたり、記載されている山の名前が違っていたなどの問題点があったりしていたそうです。これらの相違点を協議し、縮尺を統一にして修正した新絵図を取り交わしたとの記録が残っています。しかし、それでも境界をめぐっての紛争は収まらなかったため、境界で紛争がおき結局幕府の裁定を仰ぐことになりました。月日がながれ正徳四年(一七一四年)、幕府の裁定は津軽領側の主張をほとんど認める内容でした。論所を入会地(いりあいち)として南部側で毎年銭三貫文(一貫文は一千文で、一〇〇〇枚の一文銭を「さし」という紐(ひも)に通したもの)を入山料として津軽領側に納入することによって従来通り伐採できるようになったと南部領津軽領境墨引絵図写に記されています。この南部領津軽領境墨引絵図写は盛岡城に置かれ、現在は盛岡市中央公民館に所蔵されています。(「野辺地町史」野辺地町史編さん刊行委員会、第六節 藩境) (「野辺地雑記」p21萠出 忠男著)
 
看板
※藩境塚にある覚(おぼえ)

 現在、藩境塚一帯は公園となっており、公園の国道4号線側には「馬門御番所」と書かれた木の門と番所風のトイレが建てられています。その隣には「覚」と書かれた縦2枚の高札が建てられており、番所の取り締まりについて書かれています。

 藩境塚を進み野辺地町の東側に愛宕公園があります。この公園には数々の文人に関わる石碑があります。松尾芭蕉を尊敬する野辺地の俳人たちによって、文政12年(1829年)に愛宕山に建てられた松尾芭蕉句碑があります。
 
「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」

この句は、芭蕉が貞享5年(一六八八年)に桜の名所吉野山で詠んだものです。江戸時代に始まる俳諧の伝統は明治以降も引き継がれ、明治三六年には青森県内初の俳句同人誌『菅菰』が創刊されています。石川啄木は3度野辺地を訪れています。叔父葛原対月が常光寺住職で、父の一禎も一時身を寄せていたこともあり、昭和三七年に「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや」という啄木の歌碑が記されています。(「野辺地町ホームページ」県指定文化財参照)

※愛宕公園 松尾芭蕉の石碑
 
                                金さん

出典:
野辺地町史
野辺地町ホームページ
ヤフーブログ『南部藩と津軽藩の境界に築かれた「藩境塚」の巻』