南部編第18話 北信愛(きた のぶちか)

  • 2013.12.19 Thursday
  • 11:01

※熊野神社

青森県南部町剣吉に剣吉城跡があります。 築城時期は不明で、『奥南旧指禄』によると、三戸南部氏3代・時実の四男、政実を祖とされています。 北信愛(きた のぶちか)は大永3年(1523年)に剣吉村で生まれました。 三戸南部氏一族の武将であった父、致愛(むねちか)は永禄中(1558〜1569年)に死亡し、信愛が剣吉城の跡を継ぐことになりました。 信愛は物事を恐れず、智謀に優れ、武術では特に弓が優れていたそうです。


※神社内

信愛は、南部利直の父、初代盛岡藩主・南部信直とも深い関わりがあります。 信愛が剣吉城の城主をしていた頃、24代当主・南部晴政に後継者がいなかったため、婿の信直が跡継ぎに決まっていました。ところが、晴政に跡継ぎとなる男の子が誕生したため、信直と不和になりました。すでに、妻も他界していたため、信直は跡継ぎを辞退し、田子館にもどりました。しかし、晴政は可愛い我が子の身を案じ、何度も信直を殺そうとしたそうです。不憫に思った信愛は信直を剣吉城に匿(かくま)いました。これを知った晴政はますます怒り、剣吉城にはいってきたため、北信愛も止むを得ず出兵することになりました。しかし双方の間に根城南部18代・八戸政栄が入り、和解を進め、その場は収まりました。(剣吉城主・北信愛 P9〜50)


※神社内看板

その後、25代晴継も幼くして死去。の働きかけにより信直は、26代当主となります。そこから南部信直が活躍していき、安東氏との戦いに勝利し、津軽地方を手に入れました。  しかし、16世紀後半になると、大浦為信(津軽為信)が独立の動きを見せ、浪岡城の北畠氏を滅ぼし、石川城の石川高信(南部信直の父)を討ちました。 為信の行為は、豊臣秀吉が発した大名間の私戦を禁止した「惣無事令」に違反したものでしたが、石田光成を介して秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵されました。

一方、南部信直は前田利家を介し、為信は惣無事令を違反した逆徒であると秀吉に訴えたが処罰されることはなく、信直の訴えは退けられました。 そして信直も天正18年(1590年)に小田原征伐の際に為信から遅れをとりましたが、秀吉から朱印状を受けました。  こうして南部信直も南部7郡(糠部、閉伊、鹿角、久慈、岩手、志和、遠野)の領主となり、地位を高めることに成功しました。 それでも、信直に従おうとしない人々はまだまだ多く、信直の苦悩は続いていくのです。(つがるの夜明けP172〜181)

出典 剣吉城主・北信愛 P9〜50(名川町歴史研究会)
   三戸通史P72〜73(三戸町)
   南部町誌 上 P413 (南部町)
   つがるの夜明けP172〜181 (陸奥新報社)

コラム               
メガネ