第1話 大河兼任の乱 〜浅虫・古戦場〜

  • 2013.08.15 Thursday
  • 09:36
 青森市から国道4号線を十和田方面へ進むと、浅虫地区の善知鳥(うとう)トンネル付近に「古戦場の碑」があります。



鎌倉政権と奥州藤原氏(※1)残党である大河兼任らとの間で戦が行われた「大河兼任の乱」。その最後の戦場と言われています。大河兼任の乱は文治五年(一一八九年)十二月から翌年三月にかけて東北地方の各地で繰り広げられました。(「新青森市史 資料編2」青森市史編集委員会p324~325より)
 
源頼朝率いる源氏は平家を滅ぼした後、本格的な武家政権を築こうとしていました。一方、東北地方は奥州藤原氏によって独自の平泉政権のようなものを築いていました。頼朝は奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡の死をきっかけに朝廷側の意見を聞き入れず、奥州藤原氏の征伐を開始しました。奥州合戦により鎌倉政府は奥州藤原氏を滅ぼして東北を平定したと言われています。藤原氏に仕えていた大河兼任は合戦に負けた事をきっかけに鎌倉政権への反逆を試みました。東北地方で攻防を続け、勢いを増しながら南下し宮城県栗原郡にまで達しましたが、鎌倉幕府に徐々に押し戻され現在の浅虫付近である有多宇末井之梯(うとうまいのかけはし)にて大敗したと言われています。大河兼任の乱の終結によって奥州合戦の余塵は治まり、日本史上はじめて東北のほぼ全域が統一国家の領域に組み込まれました

 


 東北を二〜三か月で制圧した兼任ですが、鎌倉を目標に七千の兵を従えて、八郎潟の氷の上を渡ろうとした際に氷が割れ、五千人が溺死してしまったといわれています。鎌倉時代に成立した歴史書である「吾妻鏡」の文治六年一月六日(一一九〇年)の行によると、今までに親や婦人の怨みによって敵討ちをした者はいますが、主人の敵を討った例がないと記されています。

※秋田県八郎潟にある供養碑

大河兼任が主人の敵討ちをした最初の人物だったことから人情にあふれた性格であった事が想像できます。また鎌倉ではただちに御家人を派遣して兼任を討たせようとしていたことから、兼任が鎌倉政権に大きな影響を与えていた事が考えられます。
 
 かつて最後の合戦上となった善知鳥崎は、波のかぶる岩の上に橋が掛かっており街道の難所として知られていました。現在は兼任が戦をした難所の面影は消え、国道にトンネルがつくられ、交通整備がされています。そのため、温泉や海水浴場などを楽しむために多くの人が訪れる観光名所となっています。
(金さん)
 ■参考文献:
「青森県の歴史」河出書房新社
弘前市史 資料編「吾妻鏡」
画像:青森観光サイトより

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「浅虫 善知鳥崎」
■関連史跡
古戦場の碑 住所:青森県青森市善知鳥崎

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