コラム第36話 重要文化財、弘前城北門/亀甲門

  • 2013.06.30 Sunday
  • 23:55
重要文化財 弘前城 北門/亀甲門

弘前城内の建物の中で、現存する城門は、追手門、内南門、内東門、外東門、北門(亀甲門)の五つで、五門とも同じ「櫓門」すなわち、石垣と石垣の間に渡櫓(わたりやぐら)を渡して、その下に門を設ける形式です。ただ弘前城の場合、石垣でなく土塁を使用しているため、純粋な櫓門といえない形です。
その五門の中で一番古い建物は北門であると考えられています。北門は亀甲門(かめのこもん)ともいい、弘前城にある五棟の城門の中でも特に規模が大きく、形状も異なり最古の形式を呈する城門です。
亀甲門は、津軽為信が攻め落とした大光寺城(現在の平川市)の城門を慶長16年、2代藩主・信牧が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、弘前城内で唯一実践を経験した貴重な城門です。柱などから多数の矢傷跡が発見されており、棟の両端にある鯱も他の門より古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門です。
(サト)
出典:弘前城築城四百年
弘前市史 藩政編

コラム第35話 弘前藩4代藩主・津軽信政

  • 2013.06.30 Sunday
  • 23:50

弘前藩の全盛期を築き上げ、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主とされた弘前藩4代藩主・津軽信政。

信政は、父の死去後、明暦2年(1656年)2月に家督を継いで藩主となります。しかしまだ幼かったため、叔父の津軽信英が補佐を務めました。信政は幼少期から聡明で、山鹿素行に師事し、儒学や兵学を学び、吉川惟足の師事も受けて神道を学びます。そして、惟足からは吉川神道の奥義を授けられています。
 
成長したのちの信政は、津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大や、養蚕、織物、製糸業などの発展・育成に努めます。民政においても善政を重んじ、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げます。
 
しかし晩年の信政の藩政にも陰りが見え始めます。藩内で起こった3万人以上の死者を出した大飢饉、さらに失態事件を起こすなど、次第に藩政は衰退の一途をたどります。混乱の最中の宝永7年(1710年)10月、信政は弘前城にて死去し、享年65歳の生涯を終えます。5代藩主となった信寿は信政の遺言に従い、御霊を高照神社に祀ったそうです。

(サト)
出典、青森県の歴史散歩
 
 

コラム第33話 津軽の牧場 〜弘前藩の産業〜

  • 2013.06.30 Sunday
  • 18:54


弘前藩の産業振興は、3代藩主・津軽信義、4代藩主・津軽信政の頃に盛んになりました。
内容は主に、良馬の生産、鉱山の開発、津軽新田の開発、津軽塗の確立でした。

1.良馬の生産
青森港開港(寛永元年、1624年)にあたり、博労町の博労達に外ヶ浜一帯での津軽
領産の馬の売買の特権を与えていました。
藩では雲谷(寛永8年、1631年)、津軽坂(現鶴ヶ坂、寛永15年、1638年)、枯木平、
滝の沢、入内の5カ所の牧場(津軽五牧)を開き良馬を産出。特に津軽領産の馬は有力
大名等への献上品になるほどの優良馬を生産していました。領内には数カ所の馬市も
開かれていました。

2.鉱山の開発
河原沢金山、虹貝金山、寒沢銀山、八光沢銀山、尾太(おっぷ)鉱山を開発し、中で
も尾太鉱山は17世紀後半は銀山、18世紀前半は銅・鉛鉱山として最盛期を迎え、2300人
から2400人もの作業員が働いていました。

3.津軽新田の開発
地名に「○○新田」と呼ばれた土地がたくさんあり、それらの地域はすべて新田開発
を行った地域といわれています。木造新田もその一つです。特に現在のつがる市一帯は
新田開発のために屏風山に防風林を植林し開発に努めた地域です。
このほか、水害の元凶とされた十三湖の水戸口の付け替えなどの治水事業を行い、多
くの新田が開かれ、弘前藩の表高は4万7千石であったのに対し、3代信義の頃には実高
10万石、4代信政の頃には30万石にも達したといわれています。

4.津軽塗の確立
若狭国小浜(現 福井県小浜市)から塗師・池田源兵衛を招き、小浜で主であった霜降
    塗、虫食塗、七子塗の技法が伝えられ、津軽塗もそれらを受け継ぎ現代まで代表的な技法
    として伝えられています。

このほか、果実・香辛料・薬用人参・漆・桑・楮・茶の栽培、製紙業にも力を入れていたとさ
れています。
弘前市内の城下町であった地域には、職業や製品の材料に由来する地名(大工町、鍛治町、
鷹匠町、茶畑町、楮町等)がたくさん残されています。


 出典:青森県漆器協同組合連合会ホームページ、中泊町ホームページ、津軽三十三寺巡り 

 

 

  -haru-

コラム第31話 津軽家の菩提寺

  • 2013.06.30 Sunday
  • 18:47
 津軽家の菩提寺は弘前市にある長勝寺で、歴代藩主の墓所のほか、環月台(初代藩主 為信の室・阿保良姫)、碧巌台(2代藩主・信枚)、明鏡台(2代藩主信枚の室・満天姫)、 白雲台(3代藩主・信義)、凌雲台(6代藩主・信著)の5つの霊屋が建てられています。  初代藩主・為信の霊屋は革秀寺(弘前市)に、4代藩主・信政の廟所は高照神社(弘前 市)にあります。  このほか、江戸時代には参勤交代による江戸住まいの際に亡くなった藩主もいたため、 江戸にも菩提寺がありました。2代藩主・信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によ り建てられた上野の津梁院です。この寺院の院号は信枚が天海から血脈を受け、授けられ た号「津梁院権大僧都寛海」に由来しています。  弘前市にはもう一カ所菩提寺としていた報恩寺があります。報恩寺には3代藩主・信義 以降の墓所がありましたが、のちに長勝寺に移されました。  また、藩主の正室や生母、姫君の墓が貞昌寺(弘前市)にあり、為信の生母、3代藩主 信義の生母・辰姫、為信の娘・伊喜などの墓があり、貞昌寺は裏菩提所とも呼ばれてい ます。貞昌寺は為信の生母の戒名「桂屋貞昌大師」から由来する寺号だそうです。 出典:青森県の歴史散歩、弘前の文化財、弘前市ホームページ、天台宗東京教区ホームページ
-haru-

コラム第30話 青森の顔アスパム

  • 2013.06.30 Sunday
  • 15:32
 
アスパムは青森市民は全員が知ってると言っても過言ではない建物です。建物の形は三角形で高さが76メートルあります。 青森県の産業、観光物産、郷土芸能などを紹介し、青森を訪れる観光客などに青森を知ってもらう、「青森の顔」となっています。 アスパムの1Fはお土産屋さんがメインとなり、イベントホールなどもあります。2Fは青森の名物「ねぶた」や
「こぎんざし」など、青森の郷土品が展示されています。13Fは展望台となっており、青森の景色が一望できます。
今でも、県外の方や外国の方もアスパムに観光に来ることもあるので、これを見た方で青森に来ることがあれば是非寄ってみてください。                                  
(メガネ)

コラム第29話 弘前路地裏探偵団

  • 2013.06.30 Sunday
  • 01:15
 弘前にはちょっと変わったツアーがあります。その名も「夕暮れ路地裏散歩」といわれている散歩ツアーです。 基本的には散歩しながら、ガイドさんがおいしい飲食店等を紹介していくといった内容です。 開催時期は6月から11月までの毎週金曜日、17時30分から19時までの1時間半の散歩です。コースは、まちなか情報センター(出発)→弘前中央市場→HOMEWORKS通り→吉野町緑地→土淵川沿い→かくみ小路→一番町坂→三上ビル→明治屋ゴールデン街→城東閣→まちなか情報センター(解散)になり、最後に31話で紹介された四神相応の地のバンダナがもらえます。 バンダナ目当てでも観光目当てでも参加してみてはいかがでしょうか?他にも複数ツアーがあるようですので「弘前路地裏探偵団」で検索してみてください。 参考 弘前路地裏探偵団ホームページ                             (メガネ)

コラム第28話 弘前城下町の職人

  • 2013.06.30 Sunday
  • 00:10


弘前には職種にちなんだ町名が数多く残っています。これは、城下町が建設された当時、町名と同じ職種の職人たちが住んでいたからです。弘前藩の需要を満たすために、職人たちが城下町に集められました。さらに、城下の人々の生活に必要な物資を生産するためでもありました。この職人たちの持ち込んだ技術や文化が、のちの弘前を発展させ、文化都市として発展してゆくのです。

その代表的な人々は、絵師・新井寒竹(あらいかんちく)。定府おかかえの絵師となり、子孫も代々江戸詰めの絵師を務めたそうです。定府とは、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍や藩主に仕える者をさします。他に、紙漉師・今泉伝兵衛、金具師・正阿弥儀右衛門、瓦師・大阪久三郎、桶師・宮本兵部、指物師・権七、塗師・池田源兵衛、左官・佐藤金十郎、絵巻師・助右衛門、植木師・権右衛門が有名な職人たちでした。

職人になるためには、現代と同じく、親方のもとで厳しく修行しなければなりませんでした。朝から夜まで雑用に精を出し、技術を習得していきます。親方は安価な労働力が手に入り、見習いは、労働力を提供して技術を学んでいったのです。

現在も残っている城下町は、先人の尊い知恵と技術が結集されてつくられました。この技術を伝えていくことが、我々現代人に課せられた使命なのではないでしょうか。

出典:弘前城物語 工藤英寿
つがる巷談 吉村和夫
私説 弘前城ものがたり-知られざる築城の謎-田澤正
弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡 長谷川成一
弘前の文化財 弘前市教育委員会
(芳賀)

コラム第27話 弘前城

  • 2013.06.29 Saturday
  • 09:38
 弘前城は、津軽為信によって計画されますが、病死により、2代藩主・信枚により築城されます。慶長15年3月から翌年の16年5月の間で完成し、1年2か月という驚異的な速さで建てられた弘前城は、築城に携わった人々の努力が集結されています。

大工などの職人は、江戸や敦賀から、数百人も集められました。石垣の石材は、和徳城、大光寺城、浅瀬石城などの、かつての為信が攻め落とした敵の城から集められ、本丸入口にある鶴ノ石、亀ノ石といわれる大岩は、2日がかりで和徳城から運んだものと伝えられています。数トンもあるという石は、土そりに積み、数百人の人が綱を引いて運搬したそうです。

建築用材は、碇ヶ関、蔵館などの山から伐採し、平川を流して運んだそうです。一説によると、この時の伐採により、大鰐、石川周辺の山は禿山になってしまったそうです。築城にかかる木材の量の膨大さがうかがえます。

鉄材は、南部の田名部から調達し、更に、南部から鉄吹き職人30人を増員し、蟹田付近で砂鉄を精錬したそうです。

現在、弘前城は国の重要文化財として指定されており、一般公開されている市民公園となっています。明治36年(1903年)以降、園内には桜の植樹が行われ、花見の時期がゴールデンウィークと重なることもあり、毎年行われる弘前さくら祭りには、日本全国からの観光客で賑わいをみせます。

出典:弘前城物語 工藤英寿
つがる巷談 吉村和夫
私説 弘前城ものがたり-知られざる築城の謎-田澤正
弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡 長谷川成一
弘前の文化財 弘前市教育委員会

                                                        芳賀
 

コラム第26話 弘前城と風水

  • 2013.06.28 Friday
  • 08:30
 弘前城は、四神相応(しじんそうおう)の地を目指して築城されました。四神相応というのは、風水の考え方をもとにしているもので、繁栄を約束された地形を指すものだそうです。
 四神とは、東西南北からの災いを鎮める神獣のことで、東の青龍・西の白狐・北の玄武・南の朱雀のことを指します。
 これを弘前城に当てはめると、東の土淵川・西の西浜街道・北の亀の甲町・南の南溜池となります。
 弘前城は、現在でも桜の名所として全国に知られた観光地になっていますから、風水というのも意外と効果があるものなのかもしれません。
アラン・スミシー
参考文献
青森県史資料編近世

コラム第25話 為信の死に思う「真実」の行方

  • 2013.06.27 Thursday
  • 16:23
 津軽為信は、京都でその生涯を終えました。
 一般的には、病床に伏した嫡男である信建を見舞うために京に行き、その京の地で為信も倒れた、ということになっていますが、こんな説もあります。本当は、病を患っていた為信が、自身の体を京の医者に診せたかった。
 為信は、石川城攻略の時には、夜襲を仕掛けるなど、奇襲を多用します。自分の家臣さえ信用できない男です。そんな男なら、京都に行く理由も自己中心的かもしれないと思うのもむべなるかな。
 日頃の行いを気を付けないと、どんな行動をとっても悪くとられかねないということですね。
アラン・スミシー
参考文献
青森県史 資料編 近世
新青森県史 資料編2 古代・中世

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