第36話 弘前城 〜築城400年〜

  • 2013.08.31 Saturday
  • 14:50
 


※弘前城

 弘前城(ひろさきじょう)は、青森県弘前市にある城です。別名・高岡城と呼ばれるこの城は、江戸時代に建築され、現存する天守としては東北地方では唯一のもので、小規模ではありますが、築城当初の縄張りの大部分がそのまま残っており、全国の城郭天守の中でも代表的なものである城跡として知られています。津軽統一を成し遂げた津軽為信(ためのぶ)によって慶長八年(一六〇三年)に計画され、二代・信枚(のぶひら)が慶長一五年(一六一〇年)、築城に着手し、翌年に完成しました。以後、弘前城は津軽氏の居城として、廃藩に到るまでの二六〇年間、津軽藩政の中心地として使用されました。平成二三年(二〇一一年)には築城四〇〇年の節目の年を迎えることとなりました。
 築城当時、天守閣は現在の本丸西南の隅にあり、五層の堂々たる天守がそびえ建っていました。寛永四年(一六二七年)九月十日、この日の亥の刻(午後十時頃)、天守に雷が落ちました。落雷により天守は炎上し、四層目には火薬を置いていたため大爆発を起こし焼失してしまいました。天守は、土台石垣から南の堀へ落ちて炎上し、火薬が爆破した時には、柱、白壁など遠く半径約十キロメートルあたりまで飛び散ったと伝えられています。このため所蔵していた鉄砲一五〇〇挺、槍二〇〇〇本、具足一〇〇〇領その他の武器及び、諸記録、系図、書籍その他仕器、宝物等が焼失してしまいました。2代・信枚が、父為信の意志をついで高岡城を築いてから一七年目の災害で、多くの武器、財宝を失う大事でした。この変事は、早速幕府にも報告され、秋田藩主・佐竹義宣は、鉄砲三〇〇挺を送って見舞いの使者を来訪させたといいます。(「弘前市史 藩政編」P107~P108弘前市)当時、この天守炎上は、祟りによるものと信じられていました。そこで、信枚はこの祟りから逃れるため、「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」と改称しました。この改称は信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によるものだといわれています。「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、 魔除けの意味があるそうです。


※弘前城公園内

 その後、武家諸法度により、自由に城を築くことも、五層以上の天守閣の建築も禁じられていたことから、天守は再建されず櫓で代用していました。文化七年(一八一〇年) 九代藩主寧親のとき、蝦夷地警備の功によって、七万石、十万石と石高が昇格したのを契機に、移築という名目で幕府の許可を取り、隅櫓を改造する形で新築され、翌年完成したのが、西南隅に三層を成し御三階櫓(ごさんかいやぐら)と称される現在の天守です。天守は、見る方向によって姿が異なる二正面の天守を成しているのが特徴で、三層三階建てで大屋根の高さが約十六メートルという小規模・簡素ながら堂々とした雰囲気をもっています。(「弘前城築城四百年」P39〜P40 清文堂出版株式会社)


※弘前城公園内

現在、天守は弘前公園有料区域内本丸に位置し「弘前城史料館」として津軽藩政時代の歴史資料を展示、公開しています。一階は刀や鎧など、戦で使用された武具を中心に、2階は火鉢や碁盤、武士の公服である裃などの生活用品を、三階は弘前城を含め全国四八の城郭の写真と、弘前城本丸御殿のミニチュア模型が展示されています。弘前城跡は、弘前公園として整備されており、公園内では、四月下旬から五月上旬にかけて「さくらまつり」が開かれ、明治時代以後に植えられた約二六〇〇本に及ぶサクラと、江戸時代以降の老松が調和し、全国から二〇〇万人以上の観光客が訪れます。秋には植物園でも「菊と紅葉まつり」が行われ、冬には「雪灯籠まつり」でも賑わいます。
                                                     (サト)
出典 弘前市ホームページ

 

第35話 高照神社 〜名君・信政〜

  • 2013.08.31 Saturday
  • 11:50
 


※高照神社内

 高照神社(たかてるじんじゃ)は春日四神とともに、津軽を統一した藩祖・津軽為信(つがるためのぶ)と、四代藩主・津軽信政(つがるのぶまさ)が祀られている、弘前藩において岩木山神社とともに厚く信仰された神社です。平成一八年(二〇〇六年)に境内の主要な建物が国の重要文化財に指定されました。
 四代・信政は、弘前藩きっての名君と名高い殿様で、新田開発・治水工事・植林事業・藩庁日記の開始・検地の復活など、様々な実績を残しています。特に日本各地から職人を津軽の地に招き産業の活発化を図りました。その中から、あの津軽塗も生まれたそうです。また神道の一派である吉川神道(よしかわしんとう)という教えを受け、その奥義を伝授されています。吉川神道の奥義を伝授されたのは、江戸時代の全国の藩主の中でも、徳川家光の異母弟である会津藩初代藩主・保科正之(ほしなまさゆき)と信政の二名のみとされています。信政は自分の廟所を高岡の地にせよと遺言を残して宝永七年(一七一〇年)に亡くなり、神式よって埋葬されました。高岡の地が選ばれたのは、藤原氏の氏神を祀る小社があったとされるためで、津軽氏が藤原姓を名乗ったことによるといわれています。信政が没した翌正徳元年(一七一一年)から二年かけて、五代・信寿(のぶひさ)が遺命によって高岡の地に保科正之を祀る会津(現福島県)の土津神社(はにつじんじゃ)を手本として社殿を造営し、吉川神道の創設者・吉川推足(よしかわこれたり)からは「高照霊社」の称号が与えられました。現在のように「高照神社」といわれるようになるのは明治初年の神仏分離以降の事であるとされています。殿配置は東西に一直線で鳥居、随神門(ずいしんもん)、拝殿、弊殿が並び、廊下を挟んで中門から本殿に至り、更に西方二〇〇メートルに廟所と墓所がある独特の構成となっています。このように吉川神道の教えに基づいた建造物群で現存するのは他に例がなく、更に江戸時代中期の神社建築の特徴をよく現していることから、平成一八年(二〇〇六年)七月、本殿をはじめとする建物八棟と信政公墓二基が重要文化財に指定されました。明治六年に郷社、同十年には藩祖為信も合祀され、同一三年には社格は県社となっています。
高照神社には数多くの資料や宝物が収蔵されています。

 
※高照神社内

・銘真守太刀拵・掛 四代信政が佩用していたものを、五代・信寿が寄進したとの伝来がある。

・津軽信政着用黒小實勝色威甲冑 江戸時代中期のもの。五代・信寿寄進。

・刀剣類十一口 明治十年の藩祖為信合祀に際して旧家臣等から奉納されたもの。

・高照神社奉納額絵馬五四枚 いずれも幕府の御用絵師や定府の藩御抱絵師の描いたもので、質・量ともに津軽地方では他に例を見ません。(「特別展 高照神社宝物展 図録 高照神社」P40〜P41 青森県立郷土館)


※津軽一族の旗印

 その他にも明治十年(一八七七年)に藩祖為信を合祀した際に旧士族たちが奉納した武具を中心とした一群や信政によって召し抱えられた、山鹿流兵学者である貴田孫太夫の子孫の貴田稲城から、明治三二年に奉納された三〇〇点以上にものぼる大量の絵図類があり、その他工芸品等の文化財を収蔵、公開しています。
                                                     (サト)
出典 「新編 弘前市史 通史編岩木地区」P342〜P345 弘前市岩木総合支所総務課


 

第33話 津軽藩の牧場 〜津軽藩の外交を支えた「津軽五牧」〜

  • 2013.08.30 Friday
  • 12:30

※津軽雲谷牧場址の碑


 青森市鶴ヶ坂、奥羽本線沿いに保食神社があります。弘前藩が良馬産出のため開いた 牧場「津軽五牧」の一つ「津軽坂の牧場」があった場所です。
 寛永15年(1638年)、弘前藩3代藩主・津軽信義は家臣に命じ、南部藩領倉内村(現上北郡六ヶ所村倉内)から探 させた牧司・倉内図書に津軽坂に牧場を造らせ、牧頭としてその経営にあたらせました。(青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界P370青森県)
 その際、村に馬頭観音を祀った「惣染堂」を建立し、馬の守護神としたのが始まりとされて います。


※雲谷にある茶屋


 寛文11年(1671年)、弘前藩3代藩主・津軽信義に良馬1頭を献上したことから、絵や書が得 意であった信義のの御染書(※1)が奉納され、御神体として祀られるようになりました。
 その後、「惣染宮」と改名され、、歴代藩主が崇拝する宮として、毎年、明治2年(1869年) まで、祭事費として金1両2分を与えられていました。(青森市史第十巻社寺編P257〜P258青森市)
 津軽坂の牧場は南部五枚の一つに数えられ、馬の改良・繁殖・調教等にあたってました。  明治4年(1871年)惣染宮が一時廃止されますが保食神社と名前を変え、現在に至っていると のことです。 
 津軽坂の牧場の規模は東西二里、南北三里、下付された馬の数は牝馬15頭、牡馬1頭でした。(保食神社境内由緒書)
 津軽坂の他は雲谷・滝の沢・入内・枯木平に開かれていたとされ、現在は雲谷にかつて 弘前藩の牧場があったことを示す石碑が建てられています。
 雲谷の牧場は寛永8年(1631年)、弘前藩の命により、川越源右衛門を牧頭とし、献上馬・ 進上馬などの名馬養育のため開かせたと牧場跡の石碑に記されています。
(石碑「靄の牧場について」)
 この石碑から十和田湖方面へ進むと萱野高原の茶屋が見えてきます。ここのお茶は飲むと 長生きするといわれている有名なお茶です。


※雲谷にいく道


 このお茶は川越源右衛門が雲谷の牧場で働かせている牧夫の健康維持のために、畑で採れ た雑穀と山で採れたきのこ等を配合し、焙じて飲ませたのが起源とされているそうです。(長生きの茶由来 川越観光有限会社)
 2軒ある茶屋のうちの1軒は川越源右衛門の子孫が経営している茶屋だそうです。  牧場は天保年間に藩の財政事情のため閉鎖されてしまいましたが、津軽領産の馬は鷹とと もに藩祖・津軽為信の時代から関白をはじめ、有力諸大名への献上品として珍重されており、 優良馬を産出していた「津軽五牧」は弘前藩外交において重要な役割を果たしていたといえ るのです。

※1 染書  布に筆などを用いて、染料で描く技法。

出典:青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界(青森県)、青森市史第十巻社寺編(青森市)、保食神社境内由緒書、石碑「靄の牧場について」、長生きの茶由来(川越観光有限会社)

コラム 弘前藩の産業

-haru-

第31話 高岡を弘前と改称 〜津軽信枚と天海〜

  • 2013.08.30 Friday
  • 10:14

 天台宗大僧正・天海(後に慈眼大師となった)は徳川家康・秀忠・家光の三代にわ たり側近として仕え、幕府における絶大な力を持っていました。(政界の導者天海・崇伝P2吉川弘文館)
 特に家康の信任が厚く、家康との結びつきの深さを示す出来事は、家康が「関東天 台宗諸法度」を布達したことです。  「関東天台宗諸法度」は、関東の天台宗の寺院は天海が住職を務める川越の喜多院 を本寺とし、すべての寺院は本寺の指示に従わなければならないという内容でした。
 このことは喜多院の関東における権威を天台宗の総本山である延暦寺よりも上に置 いたことです。
 後に本寺は上野に建立した寛永寺に移ります。(政界の導者天海・崇伝P7〜P9吉川弘文館)
 寛永寺は江戸城の鬼門の位置に建立され、山号を東の比叡山を意味する東叡山とし ました。寛永寺建立後は関東だけでなく全国の有力な天台宗寺院も寛永寺傘下の末寺 となり、総本山の延暦寺をもしのぐほどとなり、天海は天台宗における不動の地位を 築きました。(政界の導者天海・崇伝P59〜P60吉川弘文館)
 
特に天海を有名にした業績は家康の没後、幕府は家康を類い稀な偉大な神として祀 ることを考えていたとき、神号を「明神」とすべきか「権現」とすべきかの論争があ りました。  「明神」を押していたのが天海とともに徳川家側近として仕えていた臨済宗の僧・ 崇伝と豊臣秀吉を祀っている豊国廟(豊国大明神)の社僧・梵舜で、天海は「権現」 をと主張しました。
  天海が「権現」を主張した理由は、「明神号はつい先ごろ滅亡した豊臣家の秀吉に も用いた神号で、その豊臣廟を破却させたのは、他ならぬ家康公自身である。さらに、 家康公を明神号で祀れば、家康公と秀吉は同格の神になってしまう」ということでし た。
 この天海の言い分が、2代将軍・徳川秀忠や幕閣を納得させ「権現」に決まったと いうことです。
(政界の導者天海・崇伝P46〜P57吉川弘文館)

 天海と弘前藩2代藩主・津軽信枚とのかかわりは、信枚が為信の死により、家督を 継承した時、江戸へお礼言上に行った際に弟子入りしたことから始まりました。
 その後、信枚は天海から様々なことを学び、中でも風水にたけていた天海の教えは、 新城・弘前城築城に際しても大きな影響を与えたといわれています。
 弘前城は慶長16年(1611年)、2代藩主・津軽信枚によって風水による「四神が 四方を守護する四神相応の地」の思想を用い築城され、当時の地名から高岡城と称 していました。(青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界P293青森県)
 その後、寛永4年(1627年)、落雷により天守は炎上し、大爆発を起こし焼失し てしまいました。(青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界P295 青森県)この天守炎上は、当時、祟りによるものと信じられていました。
 そこで、信枚はこの祟りから逃れるため、「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」 と改称しました。 この改称は信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によるものだといわれています。
 「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、 魔除けの意味があるそうです。
 このほか、信枚は天海の勧めで、徳川家康の養女・満天姫を娶り、領内にいくつか の天台宗の寺院を建立しています。さらに、信枚は津軽藩の江戸藩邸を天海が住職を 務める上野の東叡山寛永寺の近くに設け、後に江戸の菩提寺「津梁院」となります。 この菩提寺の号は信枚が天海から与えられた血脈「津梁院殿権大僧都寛海」から由来 するとのことです。(天台宗東京教区ホームページ清瀧山常福寺)
 また、津軽藩が越後への国替えの危機が訪れた際には、満天姫や天海の働きにより 免れることができたともいわれています。  これらのことも加えると、信枚と天海の師弟関係はかなり強いものであったことが 伺われ、徳川家康の頭脳ともいわれた天海が弘前藩に与えた影響力は計り知れないも のがあります。

出典:青森県史資料編近世1近世北奥の成立と北方世界(青森県)、政界の導者天海・崇伝(吉川弘文館)
コラム 津軽家の菩提寺          
-haru-
 

第30話 弘前藩、森山弥七郎に青森開港を命じる

  • 2013.08.29 Thursday
  • 00:30


※青森県青森市にある堤川

青森港は寛永3年1626年に弘前藩によって作られました。任務にあたったのは奉行の森山弥七郎です。森山弥七郎は「青森開港の祖」といわれ、今日の県都・青森市の原型を築いた人物です。(青森県史資料編近世1P282)


※青森市善知鳥神社内、善知鳥沼

親南部派・アイヌ・在郷商人層などの旧勢力は新領主の津軽氏になかなか馴染みませんでした。旧勢力は反発を続け、経済基盤である交易の利点を藩側に移す目的として青森港が作られたといわれています。津軽二代目藩主・信枚の代となって、一国一城の制約もある南部藩に備え港のある町をつくることを考えたといわれています。作り方によっては大きな港町は城よりも戦いの時に有利であるという事で、外ヶ浜地域の小漁村に過ぎなかった善知鳥村に港を築造し、森山弥七郎によって町割りが行われ青森港は青森が誕生したきっかけでもあります。
 


※善知鳥神社内、鳩がよくいます。

一般商家と酒造業者が集まる大町、船問屋が集まる浜町、米商人の集まる米町の3町に町割りされました。特に酒造業者については青森の産業のはじまりだといわれています。原料の米と良い水に恵まれた青森は一時期61件もの酒造業者があったといわれています。ところが、1711年〜1716年をピークにして酒造業者は次第に衰退していきました。理由として度量なる大火による被害から立ち直れなかった事と、資質の変化におくれをとったためといわれています。特に天明、天保の大凶作の際に節米のため酒造が禁止され、その間上方の良酒が大量に出回ったことも衰退への道を後押ししました。(青い森と堤川P72〜75)


※青森市アスパム

出典 青い森と堤川 P72〜75(北の街社)
   青森県史 資料編 近世1 P282(青森県)

(メガネ)


コラム 青森の顔アスパム

第29話 弘前城の四神 〜沼田面松斎〜

  • 2013.08.29 Thursday
  • 00:05

※朱雀に位置する平川

鷹岡(高岡)城築城に際し、軍配者、沼田面松斎は長勝寺構、鷹岡(高岡)、亀ヶ岡の三候補から占術で鷹岡(高岡)を選んだといわれています。他の候補地は衰亡を予感させたという理由がありました。慶長15年3月、高岡城築城が開始され、翌年5月に完成します。沼田面松斎は慶長17年に没しましたが、生前は高岡を四神相応の地にしようと考えていたといわれています。四神相応とは、風水でいう繁栄を約束された地形の事で、四神は四方から降りかかる悪災を鎮め、守護するといわれる神獣です。東は青龍(土淵川)、西は白虎(西浜街道)、北は玄武(亀の甲町)、南は朱雀(南溜池)を配しています。また、弘前城の縄張りを担当した東海吉兵衛は北条流軍学に精通しており、全国でも珍しい北条流によって築かれた城となったそうです。                                                    沼田面松斎は江戸で多大な影響力を持っていた天海僧正とは刎頸(ふんけい) の友でもあったとされています。                         

※玄武に位置する岩木山

寛永5年、高岡は弘前に改められ、城名も弘前城となりました。
弘前城の縄張りを担当した東海吉兵衛は「北条流軍学」にも精通しており、弘前城は全国でも珍しい城となりました。
中世における迷信・邪説的要素である軍配を廃し、合理的な軍学を体系化して創始したものです。 また、氏長は『士鑑用法』を著わし、軍学を泰平の世における武士の精神修養法としました。(弘前城と四神相応P15〜60)   
※白虎に位置する参道


出典 風水で読み解く弘前 P15〜60(北方新社)
     青森県史 資料編1 P295(青森県)

コラム 弘前路地裏探偵団         

(メガネ)
 

第28話 城下町 〜元寺町から新寺町へ〜

  • 2013.08.29 Thursday
  • 00:01

※新寺町マップ

 弘前城の東側にあった寺町が慶安2年(1649年)に起こった火事で焼失したため、現在の新寺町に移されます。新寺町には、真言宗、天台宗、浄土宗、日蓮宗など、様々な宗派の24カ寺が集まり、観光名所の一つともなっています。

 新寺町の寺院街にたたずむ貞昌寺。2代目弘前藩主・津軽信枚が創立したと伝えられていますが、為信の娘、富姫が創建したという説もあります。境内には、為信の側室であり、信枚の生母であった栄源院(えいげんいん)の墓、信枚の側室であった、荘厳院(しょうごういん)の墓も参拝することができます。

 そして、全国でも珍しい様式の一文字の庭、貞昌寺庭園も見ることができます。野本道玄がつくったとされるこの庭は、県指定名勝とされています。特に領内を縮小した構成になっていて岩木山や岩木川、津軽平野を模した縮景式庭園でさらに背後の山々を背景として取り入れています。


※新寺町にある天徳寺

 祀られている木造釈迦涅槃像は、お釈迦様が亡くなられた時の姿を現した、日本では珍しい横になった仏像です。涅槃で悟りを開くことを望む、お釈迦様の表情がとても穏やかです。寺宝である絹本著色当麻曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくたいままんだらず)は鎌倉時代後期に制作されたもので奈良当麻寺の浄土図を模し4分の1の大きさであることから「四分一曼荼羅」と呼ばれています。絹本著色当麻曼荼羅図は作風に優れ制作当時の特徴をよく表しているものとして平成3年に青森県重宝に指定されています。

 新寺町では、弘前城とともに繁栄を遂げた城下町の風情を感じられる場所となっています。

出典 新編 弘前市史 資料編2(近世編1) P306(弘前市市長公室企画課)
   浄土宗月窓山栄源院貞昌寺提供資料

弘前城下町の職人

(芳賀)

第27話 城下町 〜仲町武家屋敷〜

  • 2013.08.28 Wednesday
  • 12:00
※青森県弘前市亀甲の商店街

 弘前の城下町は、外敵に備え、綿密に設計された一つの要塞として建てられました。藩政時代の津軽為信によって行われた城下町の町割りは、家柄や職業別によって配置されたそうです。
弘前城の北側にある仲町地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、津軽藩の武家の住まいが建てられた武家屋敷が保存され、昔ながらの門や板掘、生垣などが伝統的な街並みを見ることができます。
※青森県弘前市、武家屋敷、旧伊東家住宅

 仲町地区は小人町、馬喰町、若党町の一帯を指します。小人町は、当初「御小人(雑役)」の居住地区で、現在の若党町の東半分も含んでいました。元禄以後、若党町と同じように武士の居住地に変わり、町名はそのまま残されました。馬喰町は当初、「籠町(かごまち)」と呼ばれ、馬の鑑定、医療や売買を行う「博労(ばくろう)」が住んでいたことから博労町となりました。若党町は当初、「歩者町(かちのものちょう)」と呼ばれ、慶安年間(1650年頃)に「御陸尺町(おろくしゃくまち)」と改称されます。「陸尺」は乗り物を担ぐ人を指します。「若党」とは、武家の付き人のことです。馬喰町も若党町も元禄年間からこの地に武士が居住するようになり、現在の町名になりました。
※旧伊東家いろり

 仲町地区では三棟の武家住宅が一般公開されていて、県重宝に指定されている旧伊東家住宅と旧岩田家住宅、旧梅田家住宅などを見ることができます。式台構えの玄関を正面として接客用の座敷や日常の場である常居(じょい)などが続き、簡素ながらも剛健な江戸時代後期の中級武士の生活を偲ばせてくれます。
 亀甲門の向かいにある石場家住宅は、江戸時代中期に建てられた津軽地方の商家の遺構として貴重であり、国の重要文化財に指定されています。石場家は弘前藩の御用商家であり、藩政時代には、雑貨などを扱っていました。現在は、酒屋を経営しています。
※武家屋敷外観

  このように、弘前市仲町伝統的建造物群保存地区は、多くの伝統的な街並みが大きく変貌する中にあって、江戸時代の武家屋敷の景観を今に伝える地区として重要視されています。

出典 青森県史 資料編 近世1 近世北奥の成立と北方世界P189(青森県)
   弘前市仲町伝統的建造物群保存地区提供資料

コラム 弘前城

(芳賀)

第26話 長勝寺と禅林街 〜鬼門と裏鬼門〜

  • 2013.08.27 Tuesday
  • 15:13
※青森県弘前市長勝寺入口

 青森県弘前市新町にある、光明山誓願寺。誓願寺は大光寺村(現平川市)に創立され、弘前城築城の際に現在地へ移されたものと伝えられています。誓願寺は、四度の火災に見舞われていますが、山門だけがその災難を逃れていて、国の重要文化財に指定されています。山門の懸魚(げぎょ)には、上部に一羽の鶴、下部に2匹の亀がついており、その様子から「鶴亀門」とも呼ばれています。
 この寺には、沼田面松斎の墓碑が立っています。沼田面松斎は、津軽為信の軍師として、弘前城築城の際、場所選定を行った人物でもあります。また面松斎は、風水にのっとり、弘前城の鬼門、裏鬼門にそれぞれ押さえを作りました。  
※弘前八幡宮
 鬼門の押さえとして、弘前市田町にある弘前八幡宮(ひろさきはちまんぐう)があります。弘前八幡宮の本殿と唐門は国の重要文化財に指定されていて、極彩色に彩られた唐門は、屋根の四隅が沿っており当時としては珍しい特徴をもっています。  
※津軽家の霊屋

 そして、禅寺が並ぶ禅林街の奥に、裏鬼門の押さえである長勝寺があります。長勝寺は、津軽家最初の菩提寺で、三門は国の重要文化財にも指定されています。  
 現在も、弘前の街が青森の中心都市なのは、風水が守っているからかもしれません。

アラン・スミシー

参考文献
青森県の歴史散歩p14・p21~p23(山川出版社)
青森県史 資料編 近世機。陦隠坑亜弊朕晃)


コラム 弘前城と風水

第25話  津軽為信の死と菩薩寺 〜革秀寺〜

  • 2013.08.27 Tuesday
  • 10:10

※青森県弘前市革秀寺


  慶長7年(1602年)、津軽為信は、病気の嫡男・信建(のぶたけ)を見舞う為、京に向かいました。しかし、為信の到着を待たず信建は病死し、為信本人も京の地で、その人生に幕を閉じます。
 その津軽為信の霊屋が、弘前市藤代の津軽山革秀寺にあります。革秀寺は、慶長12年、2代目領主津軽信枚(つがるのぶひら)によって建てられました。門前には池があり、夏には、美しいハスの花が一面を埋め尽くし、見る人の目を楽しませてくれます。


※革秀寺 津軽為信霊屋

 蓮池を越えると山門が立ちふさがっています。山門の扉には、津軽家家紋である津軽牡丹が刻まれています。山門をくぐり、右に目をやると、鐘楼があります。重厚な鐘楼の音は、今も革秀寺に眠る為信の魂を慰めています。
 そして、山門をまっすぐ進むと、本堂が見えてきます。国の重要文化財にも指定されている本堂は、茅葺きの屋根やウグイス張りの廊下が、歴史を感じさせてくれます。

※霊屋は極彩色の装飾が施されています

 本堂の左手には、津軽為信霊屋(つがるためのぶのたまや)があります。建立された当時は、質素なものであったようですが、文化年間の修理によって、現在の極彩色な姿になったようです。現在、非公開となっている霊屋内部の壁は、板卒塔婆(いたそとば)に囲まれており、そこには宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる供養塔が安置されています。
 革秀寺は、今もなお、津軽為信の威光を感じることができる場所となっています。

アラン・スミシー

参考文献
津軽為信 p259(東奥日報社)
青森県史資料編近世機。陦隠僑検弊朕晃)
青森県の歴史散歩 p50(山川出版社)

 

コラム 為信の死に思う「真実」の行方

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