第24話 津軽為信、浅瀬石城攻め 〜津軽氏としての為信〜

  • 2013.08.27 Tuesday
  • 09:02
http://rekisi-kaido.owl-aomori.com/?eid=64※青森県黒石市浅瀬石城址
 為信の津軽攻略は飯詰高楯城の攻略をもってほぼ完成されました。豊臣秀吉から領主としての保証を取り付けるために、朱印状をもらうことが次の狙いでした。
 ※浅瀬石城説明版

 この時から、為信は大浦姓を棄てて、津軽の姓を名乗るようになり、公に津軽領主となりました。しかし、浅瀬石城主代城主である千徳政氏(せんとく まさうじ)の待遇に関する事で新たな問題がおきました。  
※浅瀬石城頂上から撮影

 浅瀬石城は南部氏の津軽支配の拠点として機能していたといわれています。永禄四年(一五六一年)、政氏は、為信と同盟を結びました。為信とは「津軽征服のあかつきには、それぞれ、領土を山分けする」と約束していたのですが、結果的に千徳氏は一家臣として配下に置かれてしまいました。(「津軽の夜明け」陸奥新報234pより)
それに不満をもった政氏は、反旗を翻し為信と浅瀬石城入り口である五輪沢で戦うこととなります。攻防戦が展開され、浅瀬石軍が敗れて浅瀬石城は落城しました。(「新青森市史 資料編2」青森市史編集委員会p532より)
 
 その浅瀬石城跡があるのは青森県黒石市、黒石インターチェンジから数分の場所にあります。近くには浅瀬石ダムがあり、地域の農業用水や上水、発電を支えています。浅瀬石はりんご園が広がっている地域となっています。りんご園の向かいにはかつての館神(たてがみ)が祀られており、現在でもこの地域を見守っているのかもしれません。
(金さん) 

参考文献:津軽書房刊「ふるさとの歴史」
現在の浅瀬石

第22話 堀越城 〜前線基地から本城へ〜

  • 2013.08.26 Monday
  • 19:30
※青森県弘前市堀越城入口  
 堀越城は、津軽統一を成し遂げた弘前藩祖・津軽為信の居城です。
 弘南バス・堀越バス停側に、赤い鳥居と、その横に堀越城址と書かれた石碑があります。鳥居を抜けた先が堀越城跡となっています。本丸跡は熊野宮の境内や公民館の敷地になっており、堀跡や土塁などの遺構も広範囲に渡り残っています。現在は、史跡公園として整備しているため、発掘調査が断続的に行われており、陶磁器や鎧の一部など、多くの出土品も見つかっています。(「為信戦跡」P26〜P27 一般財団法人弘前みどりの協会)
※堀越城跡水豪
 この城は、建武四年(一三三七年)北朝方の曽我貞光が、南朝方への攻撃拠点として築城されたといわれています。文禄三年(一五九四年)、為信は大浦城から堀越城へと本城を移し、神社・仏閣(ぶっかく)などを集め、城下町を形成しました。このとき、津軽氏祖先・大浦光信の菩提寺である長勝寺も、大浦から移しました。堀越城は一説によると津軽氏祖先・威信(たけのぶ)の居城であったほか、四代・大浦為則の弟・武田守信(為信の父といわれる人物)の城でした。さらに、為信は幼時ここで町居飛鳥に養育されたと伝えられ津軽氏には由緒ある城だといわれています。その後、津軽統一を目論む大浦為信により、堀越城は前線基地として利用され、石川城や大光寺城も攻め落とします。
※堀越城石碑
 堀越城には守備に弱いという弱点もありました。平川沿いの低湿地を利用した堀越城は、洪水などの水害が頻発し、適切な立地条件ではなかったようです。更に、慶長五年、為信が徳川方につき、関ヶ原の合戦に出陣中の留守中に、尾崎喜蔵、三ツ目内玄蕃、板垣兵部の三将が謀反を起こし、堀越城を占領しました。しかしこの後、反逆軍の全滅で幕を閉じます。また、慶長七年(一六〇二年)には家臣が城の防備を破って本丸・二の丸・三の丸に切り込むという天童事件が発生。ここに及んで、この城が不吉であることや防備の不足が問題となり、新たな本城として弘前城の建設が決められ、第二代藩主・津軽信枚の代に弘前城が完成して本拠を移しました。(「つがるの夜明け」P242〜P248 陸奥新報社)
 その後、元和元年(一六一五年)の一国一城令により、堀越城は廃城となるのです。                                                                        (サト)
出典 「青森県史資料編 近世1」P74 青森県
コラム 一国一城令

第21話 津軽為信の大燈篭伝説  〜ねぶた〜

  • 2013.08.26 Monday
  • 18:35
 ねぶたの由来については様々な説があります。良く知られているのは「坂上田村麻呂」伝説です。朝廷の命令に従わなかった奥州の蝦夷を、征夷大将軍として討伐にやってきた坂上田村麻呂が大きな燈籠を作り、笛や太鼓を用いて敵をおびき寄せ、捕えたのが始まりという説。七夕祭りにまつわる民俗行事で豊作祈願の一つとされる「ねむり流し」から発展したとの説。また、津軽為信が関わっている伝説もあります。津軽為信の重臣・服部長門守康成が青森ねぶたの原形を作ったという説です。文禄二年(一五九三年)津軽為信公が京都滞在の盂蘭盆会で、重臣・服部長門守康成に奇想天外な大灯篭を作らせ、京の町を練り歩かせたのが始まりといわれています。(「青森ねぶた誌」P62~P63 株式会社協同)この服部康成の菩提寺が弘前市禅林街にある安盛寺です。この寺には、為信、信枚、信義と三代の津軽藩主の画像があります。中でも為信の画風が最も優れており有名です。為信像は服部康成が寄進したもので、康成は同じものを三幅描かせ、津軽家と近衛家に一幅ずつ、そして残りの一つを自分の菩提寺の安盛寺に納めたとされています。(安盛寺提供資料より)
 ねぶたの起源にはいろいろな説があり、いまだ定かではありませんが、現在では日本全国にある土着の七夕祭りやねむり流しの行事が変化したものと考えるのが主流で、現在の形式のねぶた祭の発祥は浅虫ねぶたとされています。藩政時代や明治時代には、大型の灯籠を担いで町中を練り歩くことは禁止とされていました。しかし、一九四四年の第二次世界大戦で戦況が悪くなったため、士気を上げるために解禁されました。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光行事の一つとして数えられるようになりました。 
 ねぶたの作りは、元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分はその上に貼った和紙に筆で描いていました。昭和三十年代に北川啓三というねぶた師が針金を用いて指を一本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こりました。ロウソクによって照らしていた内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功し、より芸術性と完成度を高めたのです。(「青森ねぶた誌」P224 株式会社協同)
 現在では、様々なねぶたがあります。そして、これからも青森の観光名物として輝き続けていくでしょう。
(サト)
出典 「青森県史資料編 近世1」P70青森県
コラム ねぶた師の一年

第20話 大浦為信、秀吉から津軽支配を認められる 〜為信、4万5千石の大名となる〜

  • 2013.08.26 Monday
  • 17:50

 大浦為信は南部氏の命により、安東一族の津軽奪還を阻むために派遣された大浦氏の5代当主でした。 為信は南部氏から独立するため謀反を起こし、津軽一帯と外ヶ浜、糠部郡の一部を手中に収めていました。
 
そして、天正18年(1590年)小田原征伐の際に、いち早く秀吉の陣中を訪れ、津軽支配を認める朱印状を受け、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵されました。(青森県史資料編近世1P223青森県)
 このことにより、為信は津軽藩4万5千石(表高。実質は十万石以上ともいわれています。)の大名となりました。
 
一方、為信に津軽を奪われた南部氏26代当主・信直は、為信は私戦を禁止した惣無事令に違反した逆徒であると、秀吉に訴えましたが、信直の訴えは退けられました。そして、信直も為信に後れを取りましたが、同年、秀吉に謁見し、南部支配を認める朱印状を受けました。(みちのく南部八百年 天の巻P287伊吉書院)

<

 また、為信は祖父・政信が、前の関白・近衛尚通の子であると、尚通の孫にあたる関白・近衛前久に接近し、財政支援を申し出て猶子(注1)となり、本姓・藤原を授けられ、近衛家の家紋である「杏葉牡丹」の使用を許されます。(物語南部の歴史中世
編P伊吉書院378、新釈青森縣史P278東奥日報社)
 すでに、秀吉も関白となるために、前久の猶子となって藤原姓を授けられており、為信とは義兄弟となっていたことも、朱印状を受けることができた要因の一つとなったともいわれています。 
 こうして、為信は関白と縁戚関係となることや有力大名に貢物を贈るなどの工作を駆使し、
当時の政権に政権における人脈を作ることで津軽家繁栄の基礎を築いたのです。                     

注1:義理の子となること。養子とは違い、家督を相続したりせず、姓と家柄を得るために行っていた。

出典:青森県史資料編近世1(青森県)、物語南部の歴史中世編(伊吉書院)、みちのく南部八百年 天の巻(伊吉書院)、
新釈青森縣史(東奥日報社)

                                                                                                                                                    -haru-

コラム 津軽氏と政権を握る者との縁戚関係

第19話 大浦為信、飯詰高楯城を攻略 〜津軽統一完成〜

  • 2013.08.23 Friday
  • 17:47
※青森県五所川原市高楯城の西郭
 青森県五所川原市飯詰地区に飯詰城跡があります。飯詰城は高楯城とも呼ばれ、西郭・主郭・東郭からなる平山城です。飯詰城は孤立した58.8メートルの飯塚山に築城されました。山頂には一段高い主郭と、空堀で区切られた東西の両郭が存在し、南北両側には階段状に帯郭が設けられていました。浪岡北畠氏の家臣・朝日氏の居城といわれ、康永3年(1344年)万里小路藤房の息子・朝日景房が築城したとされています。その後、朝日氏は浪岡氏に仕えます。
※高楯城址の石碑

 天正6年(1578年)に大浦為信は浪岡城を攻撃し、北畠一族を追放しました。その後次々と津軽地方の拠点が為信の手によって落ちていく中、朝日氏最後の城主である朝日佐衛門尉行安は10年間にわたって大浦氏に抵抗するのです。しかし天正16年(1588年)、為信軍によって水脈を断たれた飯詰城は、とうとう包囲されました。朝日勢の抵抗も空しく、力尽きて城に火をかけあえなく落城し、朝日氏は滅亡しました。主従300余名は自刃したといいます。
※青森県五所川原市長円寺

 朝日勢の籠城の際、十分にあった兵糧に対し水が不足した城内では、包囲している大浦勢から見える場所で馬を白米で洗い、遠目に水があるように見せかけましたが、為信に見破られたという伝説が残っています。近くに流れる糖塚川に鎧を投じて逃れようとしたが力尽き、主従が自害して果てたという、「鎧留」の名が残っている場所もあります。また、怨念が残っているのか、毎年落城の日が近づくと城の周囲に怪異な事が起きるという話もあります。

 この飯詰城が落城した事により、大浦為信の17年に渡る津軽統一は完成するのです。
  
出典 五所川原市史 通史編1 P306〜310(五所川原市)
   飯詰観光(第一巻)高楯城物語りP21(柳原与四郎)                                     

(芳賀)


コラム 長円寺の梵鐘

第18話 大浦為信、田舎館城攻略 〜為信の胸中〜 

  • 2013.08.22 Thursday
  • 17:34
   ※青森県田舎館村の城の形をした役場


青森県南津軽郡田舎館村、ここには田舎館城がありました。津軽平野一帯に建てられた城の中では比較的規模の大きい城で、本郭、新館など、4つの郭で構成された平城です。内部に領民、町屋を包括した変則的なつくりの城だったそうです。規模は東西500m×南北400m程で、本郭・外郭・新館・本郭東郭の四郭で構成されていたといいます。かつては城の北側と南側に隠し水門があり、水門を閉じると城周囲は一面の沼地に変わり、天然の要塞となったそうです。
 
田舎館役場のすぐ近くにある生魂神社田舎館役場のすぐ近くにある生魂神社


現在は、宅地化や水田により遺構はほとんどありませんが、本丸の北側に土塁の痕跡と思われる「ヤマコ」が残っています。田舎館城内には生魂(いくたま)神社があり、中には田舎館城記念碑や、田舎館城の説明文などがあります。
文明7年(1475年)浅瀬石城主千徳正久の二男・千徳大三郎貞武(政実)が田舎館城を改修、居城としました。しかし、天正13年(1585年)に5代城主・千徳掃部政武は、大浦為信との戦で敗れる直前に自害し、落城したといわれています。ヤマコに在るサイカチの大樹は、天正13年(1585年)の落城の際、330余名の城兵を埋葬した時の供養樹と伝承されています。落城に際し、正室、於市の方は落延び、嫡子・武丸は鬼沢村の棟方左衛門の養子となったのち、その後棟方氏は11代続きました。慶長6年(1601年)、徳川の世となり、津軽を統一し近世大名となった津軽為信は、津軽統一戦争で討ち死にした者達を、敵味方の別なく供養するための法要をとりおこないました。その時、田舎館城主・千徳政武の妻・於市は、津軽為信の前に進み出て、短剣で自らを突き刺し自害したといいます。(田舎館村誌 上P150〜155、P802〜803)
 
田舎館村 田んぼアート










※田舎館村 田んぼアート


田舎館城は津軽平野の中央地に築かれた城です。津軽の平城の多くは微高地に築かれており、田舎館城を含め、ほとんどが宅地化されています。田舎館村役場の最上階は天守閣風になっており、ここから田舎館城跡が一望できます。そこから田んぼアートを見ることができ、6月から9月頃までが見ごろです。

出典 田舎館村誌 上 P150〜155、P801〜803 (田舎館村誌編纂委員会)
   つがるの夜明け P214〜216 (陸奥新報社)
 
(メガネ)
 

コラム 生魂神社

第17話 横内常福院 〜津軽と南部の架け橋〜

  • 2013.08.21 Wednesday
  • 17:29
※青森県青森市横内常福院

 明応7年(1498年)、堤氏が、古館(現在の松原町)から横内に移り、横内城(別名:鏡城、堤城)を築いたとされています。初代横内城主は南部藩第二〇代信時の四男・光康であるといわれています。光康は、堤川を開発し、現在の発展の礎をなした人物であると伝えられています。開発の目的は、物資の運搬だけでなく、河原に桜の木を植え春の花見も楽しめる川としました。(横内村誌 P57〜58 横内公民館)
※境内のネコ

 天正13年(1585年)に津軽統一を進めていた津軽為信が、4代目城主・弾正左エ門を攻め滅ぼします。この戦いで、弾正を失ったその妻、朝日御前は、夫や家臣の死後の冥福を祈り、朝日御前常福尼(あさひごぜんじょうふくに)として仏門に入ります。実際のところ、朝日御前は誰の夫人であるかはいまだにわかっておらず、謎が残っています。
 朝日御前は為信の伯母にあたり、没した際に為信は横内城跡にあった定額寺に寺領50石を与え、堤弾正孫六則景と朝日御前の菩提寺とします。そして、朝日御前の戒名、「常福院殿安養妙貞大禅尼」にちなみ寺号を「安養寺」、院号を「常福院」と改めます。
※堤弾正孫六のお墓

 現在、横内城跡地は朝日山常福院と寺名を改めています。最勝院をはじめとする津軽真言五山の隠居寺として、また堤家の菩提寺として、南部家と津軽家の縁の深い寺院として知られています。もともと定額寺と呼ばれていた常福院。この寺の名前は、大浦政信の娘であり、津軽為信の叔母にあたるという常福尼の名前にちなんだものだそうです。常福尼に限らず、堤家と大浦家は縁組が多く、当時の相互の勢力均衡を保つために結んでいたとされています。
 朝日山常福院の境内には随所に、城跡を思わせる堀が残っています。このことから、当時の領地の広大さが分かるのではないでしょうか。

出典 新青森市史 資料編2 古代・中世P646(青森市)
   青森市史 第十巻 社寺編 P486〜493(青森市)
                                                                     

(芳賀)
 


コラム 薬師神社

第16話 大浦為信、外ヶ浜攻略 〜各城主の足取り〜

  • 2013.08.20 Tuesday
  • 14:29
※青森県蓬田村の海岸
青森県東津軽郡蓬田村、蓬田川北岸に蓬田城跡があります。蓬田城は嘉禎4年(1238年)、安東盛季の弟・潮潟四郎道貞が築城し、その後数代を経て、天明年間から平将門の後裔・相馬氏の蓬田越前守則政が城主となり、以後、百有余年、相馬氏が外ヶ浜を支配します
※蓬田村の向かい側にある公園

元亀2年(1571年)、津軽統一のため大浦為信は南部氏の諸城・石川城を手始めに、和徳城を、天正2年(1575年)に大光寺城を、天正6年(1578年)浪岡城を攻撃し、いずれも陥落させました。さらに、外ヶ浜一帯の諸城を攻めはじめ、油川城を攻略した翌日、外ヶ浜の諸城主に降参を促ました。蓬田城主・蓬田氏は油川城が陥落したことを聞き、城を明け渡し、南部藩領に逃げてしまいました。すでに、高田城主・土岐大和之助則基は浪岡城攻撃の際に長男・則里と共に討死しており、荒川城主は、適わないとみて無条件で降伏しました。抵抗した横内城主・堤弾正左衛門は城を棄てて近郷にひそみ、鉄砲で為信の命を狙っていましたが、失敗に終わり、為信の配下、福士弥三郎によって射殺されました。
※公園内

そのような要因から、外ヶ浜一帯は戦乱の舞台とはならなかったため、為信は無傷でその地を治めることができました。さらに同年、田舎館城を陥落させ、天正16年(1588年)、飯詰城の攻略をもって、大浦為信の津軽統一は達成されました。こうして、津軽一帯は為信を祖とする弘前藩により、以後約280年間支配されることになるのです。
 
出典 つがるの夜明け p207〜209(陸奥新報社)
   新青森市史 資料編2 古代・中世 p498(青森市史編集委員会)                  
(メガネ)


コラム 平将門

第15話  大浦為信、油川城攻め 〜奥瀬善九郎は南部へ逃走〜

  • 2013.08.20 Tuesday
  • 12:10

 青森市油川地区は中世から続く「外ヶ浜」を代表する湊街で油川城があったとされる場所です。

 ※油川城跡


  東日流記によると、天正131585年)羽柴秀吉が関白になった年、油川城は大浦為信の攻撃によって落城したといわれています。(「新青森市史 資料編2」p498~500 青森市史編集委員会)南部氏の家臣として津軽の要所を支配していた城主・奥瀬善九郎は少人数の部下とわずかな軍資金をもって田名部方面へ逃れました。『津軽一統志』の一文に「天然ノ質大臆病」と書いてある箇所から、奥瀬善九郎は臆病な性格であることが伺えます。結果として為信は一戦も交えず、油川城を攻略した事になります。

 現在、城の周辺は畑地と植栽地になっています。城は高さが低い場所に築かれていたようで、わずかに堀跡や土塁の痕跡が残っており、四方の外壁に囲まれた城であったといわれています。しかし、どのような建造物があり、どのような生活が営まれていたのかというような記録はほとんどありません。

 
 油川には奥瀬氏の菩提寺だった浄満寺があります。本堂の裏手に小高い茂みがあり、そこには、いくつかの五輪塔があります。寺に伝わるところでは、この五輪塔は奥瀬氏の墓であるといわれています。寺宝の円空作「木彫釈迦牟尼如来坐像」(もくぞうしゃかむににょらいざぞう)は青森市指定文化財になっています。境内には青森湊を開いた森山弥七郎の供養塔や、天明の飢饉で餓死した人々を埋葬した千人塚などがあります。
 
 油川は海上交通を中心に発展してきた町とされています。現在の青森市のルーツを考えるとき、中世後期における油川城・大浜湊の存在は、ますます重要となってくるのではないのでしょうか。
                                                    
(金さん)

コラム 津軽一統志

 

第14話 六羽川合戦  〜価値〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 11:30
※六羽川


時に社会は、人の価値を酷薄にも露骨に示してしまうことがあります。
田中太郎五郎の英雄的行動は、そのことを考えさせてくれます。
この六羽川合戦の顛末を見たとき、あなたは何を感じるのでしょうか。

浪岡氏を滅ぼした大浦氏と安東氏は対立していました。安東氏は戦に打って出ることを決意し、比内(現在の秋田県大館から扇田付近)の比山六郎、七郎に津軽侵攻を命じました。比山兄弟は、大浦氏に父の旧領を奪われており、大義名分も立ちます。
天正7年(1579年)7月、比山兄弟は挙兵しました。六羽川合戦の幕が上がります。
比山勢には、さらに滝本重行勢、北畠顕則勢も加わり、総勢1000名余の軍となりました。

※田中太郎、五郎の石碑

比山勢は、乳井城、乳井茶臼館を次々と攻め落とします。城主・乳井建清が不在だったことも影響したのかもしれません。勢いもそのままに、茶臼館からおよそ3キロ離れた沖浦城も続けて攻めました。
しかし、ここは城主阿部兵庫介が奮闘し、城を落とすことを断念した比山勢は、茶臼館に退却しました。ここでついに、大浦為信が出陣します。為信は本陣を岩館に置き、自ら出兵しました。そしていよいよ、六羽川の畔で、大浦勢と比山勢が相まみえることになりました。大浦勢は、劣勢を強いられ、為信は窮地に陥りました。それを救ったのが、田中太郎六郎という武士でした。田中は、為信の具足を着用し、為信の馬にまたがり、身代わりとなって伏兵の凶弾に倒れました。
※茶白館城跡

為信を討ったと勘違いした比山勢は隙を突かれ、総崩れとなり、六羽川合戦は、大浦勢に軍配があがりました。戦の後、為信は、太郎五郎の息子宗右衛門に百石を加増しました。                                   
アラン・スミシー   

<参考文献>
つがるの夜明け p202 陸奥新報社編 昭和34年
津軽為信 p171 成田末五郎 昭和50年


コラム 六羽川の今

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

アクセスカウンター

ブログパーツUL5

©株式会社サンブラッソatv

    

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM