第9話 大浦為信、大浦城主になる

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:23
  
※青森県和徳町和徳神社内

 大浦氏は、南部氏の一族であり、大浦為信の父は大浦氏4代目城主・為則の弟でした。為則は病弱で、体も不自由であったため、守信が代わりに政務を取り仕切っていました。

 しかし、守信は南部家の家督を巡った内乱に巻き込まれて戦死してしまい、為信は伯父である為則に引き取られます。その後、為則は病状が悪化したため、後継ぎを決める必要がありました。為則は、三家老を枕元に呼び寄せ、後継ぎを幼い二人の息子たちではなく、為信にすることを告げたといいます。為信の父・守信を討死させた申し訳なさと、為信が良き武将になると見込んでいたからだといわれています。
※青森県弘前市立津軽中学校

 そして、永禄11年(1568年)、為信は為則の次女・阿保良姫と結婚し、養子となって、5代城主となります。城主となった為信は、大浦家の兵数とその錬度、忠誠度を知るために、キジ狩と称し、軍事訓練を行います。その際、自領の野崎村を三方から攻め、焼き払ったといいます。家臣には内緒で、住人はあらかじめ避難させており、その後、村も元通り立て直したそうです。この時すでに、為信は南部氏から独立し、津軽を自らの手で統一することを視野に入れていたのかもしれません。(つがるの夜明けP166〜167陸奥新報社)
 
 大浦城が文献資料に登場するのは文亀2年。大浦光信が花輪郡賀田郷の地に築城、大浦ノ城と名付けました。大浦城は標高約四十二メートル、城の規模は東西五百メートル×南北二百五十メートルほど。六つの曲輪(くるわ)から構成されています。中央北側を本丸とし、本丸を曲輪で囲い、そこから更に曲輪を囲うようにして作られています。この城の構造は弘前城にも通じるものがあり、城の曲輪の形状がよく似ています。為信が当時の最新築城技術を大浦城に導入していたことがわかります。近年までは城の全体の形が明瞭に残っていましたが、今では学校の改設や道路建設、宅地化により多くの遺構が失われています。現在大浦城の姿はすでに見ることはできませんが、為信が津軽統一するための第一歩とし、そして大浦城の築城技術が弘前城に活かされていったのです。
※津軽中学校校庭が2の郭、3の郭

 大浦城跡地には、弘前市立津軽中学校が建てられています。中学校の裏手からは、広大な岩木山と、田園風景を望むことができます。現在でも、土塁の跡からなど、城のあった面影をかんじることができます。
 
出典 つがるの夜明けP164〜166(陸奥新報社)
   図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史 P88〜89(株式会社郷土出版社)
(芳賀)

コラム 為信の妻 阿保良姫(おうらひめ)
 

第8話 為信の出自 〜為信出生の謎〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:15
※青森県弘前市革秀寺内
  
為信の軍配にかかれた文字、「不制于天地人」(てんちじんにせいせられず)は為信の生涯の人生観でした。誰にも屈せず、自分の信念を貫き通す。という意味です。およそ460年前の天文19年(1550年)、為信は誕生しました。鬚殿(ひげどの)と呼ばれ、身長182cm程で頑健な体格と大きな顔。勇敢で優れた決断力を持つ人物だったようです。為信は、のちの弘前初代藩主として、いかなる敵をも恐れない信念を体得し、津軽統一を行っていきます。
為信の出生には謎が多く、弘前藩と南部藩では見解が異なります。武田守信の子供とも、南部氏族の久慈治義(はるよし)の子供ともされています。
※革秀寺本堂

それぞれの大義名分のために都合の良く書かれた記述は、現在でもどちらが正しいのか、はっきりとはわかっていません。
弘前市藤代に位置する、革秀寺。慶長3年(1598年)、長勝寺(ちょうしょうじ)8世住職、格翁舜逸(かくおうしゅいつ)の隠居所として藤崎町に創建されました。その後慶長12年(1607年)、為信の死後、革秀寺はこの地に移されます。為信はこの舜逸から普化鈴鈬(ふけれいたく)の禅を学びます。普化鈴鈬とは、中国の僧、普化和尚の故事です。死を恐れず、常に棺桶を背負ったつもりの心境を指します。革秀寺にある位牌に掛けられている鈴は、為信が体得した普化鈴鈬の鈴といわれています。為信が津軽を制したこの信念は、格翁舜逸と為信の二人の問答から育まれたのです。為信を育てた舜逸は、長勝寺を退くこととなります。
※革秀寺にあるハスの花

「不制于天地人」(てんちじんにせいせられず)という言葉は、舜逸の禅問答に対する解答でした。いかなる敵をも恐れない信念を体得した為信。出生の謎は残りますが、このような記述から、少なくともどのような人物だったのか、知ることができるのではないでしょうか。(つがるの夜明けP167〜170)

出典 新青森市史 資料編2 古代・中世 P461(青森市)
   新編 弘前市史 資料編1〜2 古代・中世編P306(弘前市市長公室企画課)
   つがるの夜明けP167〜170(陸奥新報社)
(メガネ)

コラム 名前が変わる意味
 

第7話 種里城主、大浦光信 〜光信の死〜

  • 2013.08.19 Monday
  • 10:13
 西津軽郡鰺ヶ沢町種里、県道191号線沿いに「種里城跡」があります。種里城は、延徳3年(1491年)、弘前藩の始祖である大浦光信が、三戸南部氏の命により、津軽を逐われた安藤一族の津軽奪還を阻むための拠点として築いた城です。(弘前市史資料編1P275弘前市)
 光信は種里城の他に、明応の元年(1492年)、赤石川沿いに赤石城を、文亀2年(1502年)、岩木山東南の麓に大浦城を築きます。
 


※光信の館

光信は、安藤一族からの攻撃をすべて駆逐し、安藤一族が津軽奪還を諦めると、次に目指したのは、津軽統一です。大浦城は、津軽平野へ進出するために築かれたといわれていますが、光信は津軽統一を果たすことなく、大永6年(1526年)、67歳で病のため生涯を閉じることとなります。
 


※津軽藩発祥の地石碑

光信が病に倒れ、死期を悟った時に、家臣で種里八幡宮の初代神官である奈良主水貞親(ならもんどさだちか)を枕元に呼び「汝冥途に先立ちて 我に供養せよ」と告げ、殉死を命じています。殉死した主水貞親の墓は、種里城跡にある光信御廟所の近くにあります。(国史跡 種里城跡「光信公の館」内由緒書 鰺ヶ沢町教育委員会)
 また、光信は死の直前に「死後も西の備えたらん」と言い残し、光信の養子正信に、「甲冑姿のまま、東南に向けて、立たせたまま、種里城の一郭に埋葬するよう」命じたと伝えられています。(国史跡 種里城跡「光信公の館」内由緒書 鰺ヶ沢町教育委員会)
 67歳で亡くなった光信は、死してなお所領を守るため、睨みを利かそうという光信の思いが伝わってくるような気がします。
 


※大浦光信像

 
 光信の法名は、長勝公と付けられ、盛信は父の霊を弔うために、種里に自分の父の法名にちなんで、長勝寺を建立します。光信が埋葬された御廟所には、霊力があると伝えられ、かつて、領内に悪疫が流行した時に祈祷すると、たちどころに終息したといいます。現在も光信の御廟所には、一本の雑草も生えていないとのことです。これは光信の怨念かどうかはわかりませんが、一本も生えないというのは非常に不思議な現象です。(国史跡 種里城跡「光信公の館」内由緒書 鰺ヶ沢町教育委員会)
 


※種里城跡 石碑

 
出典:弘前市史資料編1(弘前市)、国史跡種里城「光信公の館」内由緒書
-haru-

コラム 法名

第6話 青森県全域を南部氏が治める 〜南部氏津軽統一100年間〜

  • 2013.08.18 Sunday
  • 10:10
※青森県十三湖付近にある福島城跡
 青森県津軽半島北西部、日本海岸に十三湖があります。鎌倉時代末期から南北朝時代を通し、安東水軍を率い、海外交易で栄華を極めた豪族安藤氏の拠点でもあります。
 室町時代、応永年間半ばの頃、津軽地方は、十三湊の安藤氏・三戸の南部氏が支配しており、両氏は津軽地方全土の覇権をかけて激しく対立していました。
 応永25年(1418年)三戸南部氏13代当主・守行は安東氏の居城である平賀の大光寺城(だいこうじじょう)を攻撃し、陥落させました。さらに藤崎城をも攻略し、津軽平野の中枢部は南部氏の支配に属しました。(みちのく南部八百年 天の巻P180伊吉書院)
 攻撃の手は緩まず、十三湊を手に入れようと守行の子・義政(よしまさ)は、盛季の居城である市浦の福島城を、たびたび攻撃しました。 しかし、容易には成功を見なかったため、盛季の娘を妻にして和睦を結び、機会を伺っていました。
 そして、義政は永享4年(1432年)娘婿として盛季に対面を申し出、十三湊へ赴き、警戒する様子がないとみると、急に福島城を攻撃したといいます。(新青森市史 資料編2古代・中世P395青森市)不意を突かれたため、堅固(けんご)を誇っていた福島城も陥落し、盛季は近くにある唐川城へ退きました。ここで盛季は籠城し、抵抗しましたが、大激戦の末、敗れてしまいます。さらに、小泊の柴崎城まで退き、ここでも敗れたため、とうとう津軽を追われ、松前へ渡ることとなります。(弘前市史資料編1P240弘前市)
※福島城本丸跡
こうして、津軽十三湊において栄華を極めた安藤氏は津軽の地を去り、津軽を手に入れた南部氏は、青森県全土を所領とし、以後100年の間津軽を支配し、大浦為信が現れるまで思うがままにしていたのです。

出典:新青森市史 資料編2古代・中世(青森市)、みちのく南部八百年 天の巻(伊吉書院)、弘前市史資料編1(弘前市)
-haru-

第5話 安藤氏と南部氏の覇権争い 〜十三湊の発展〜

  • 2013.08.18 Sunday
  • 10:04
※青森県十三湖近くにある市浦歴史民俗資料館

 青森県津軽半島北西部の日本海沿岸に十三湖と呼ばれる大きな湖があります。この湖は海へと繋がっており、シジミの生地として知られています。この一帯は古くは十三湊(とさみなと)と呼ばれており、鎌倉幕府から蝦夷管領に任ぜられた安藤氏が築いたとされる湊です。十三湊は12世紀頃には存在が確認され、戦国時代前期まで、北方世界の海上交通網の拠点として利用されていました。
 
※資料館内での青森県地図

 西に日本海、東に湖を望み、本州最北端の海上交通の要所として、津軽平野や国内のみならず、アジアや北方世界に広く出入り口を広げ、13世紀〜15世紀前半に国際港湾都市として繁栄しました。(「新青森市史 資料編2」青森市史編集委員会p388より)交易によってもたらさせた多くの陶磁器が出土しているとともに、大規模な都市計画の様子も明らかになりつつあります。
陸奥守(むつのかみ)安藤氏は、この場所「十三湊」を根拠地としていました。
 南北2つに分裂した朝廷が合体し、足利氏の京都室町幕府の権勢はさらに強固になった時代、安藤氏の根拠地である十三湊は、発展していきます。出羽(でわ)、北陸(ほくりく)をはじめとして畿内(きない)からの上方(かみがた)の船々や、陸奥(むつ)、蝦夷地(えぞち)の交易船で活気があったとされています。出羽、津軽、蝦夷地には上方からの船に積まれた織物・古着・酒類・穀物・雑貨品などが陸揚げされ、上り船には北の産物である昆布、鮭、マス、ニシンの油などが積まれ、春から秋まで十三湊を始め、安藤氏の支配する各地の湊は繁栄を重ねていたそうです。 
※資料館内に展示されている安東盛季の木像

 一方、かねてから北朝方(ほくちょうがた)についていた南部氏も幕府の威光によって陸奥の国司に任ぜられ、その勢力が増大していました。幕府は南朝方(なんちょうがた)の安藤氏を倒すことによって南朝方全体を徐々に弱体化させようとしていたため、陸奥の国司、南部氏に命じて、安藤氏を徹底的に討伐しようと大がかりな兵を起こしました。これにより安藤氏と南部氏の攻防線は長期にわたりつづく事になるのです。国際貿易港十三湊の発展と安藤氏の全盛は、皮肉にも北方世界動乱の序曲ともなったのでした。
(金さん)


コラム 十三湖